撰集抄 ====== 巻4第8話(33) 慶祚事(三井寺) ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、三井寺の禅徒にて、慶祚大阿闍梨といふ人いまそかりける。知行ともにそなはりて、月輪観をこらし((底本「こうし」。諸本により訂正。))給ひけるには、かの庵(いほ)の松の木の上に、明浄なる月あらはれ出で給ひて、まのあたり拝まれ給へりけるとかや。 この阿闍梨、道心深くして、昔、釈尊の御法説き給へりける、鷲峰山((霊鷲山に同じ。))・祇園精舎などの、ゆかしく思ひ給へりければ、日数経て、渡らんずるいとなみのみ侍りけるには、「われも伴ひ奉らん」といふ人、五十余人に及びけるが、幡磨国明石の浦までは、三十人に落ちなり給へり。筑紫にては、みな落い給ひて、ただ、阿闍梨と心寂公とばかり、二人になり給へり。 宇佐の宮に詣でて、「舟路のほど、あはれをかけさせ給へ」と祈り給ひけるに、神明、「中天竺の仏法は跡もなし。祇園精舎は虎狼の臥し所(ど)、白鷺池は草のみ茂り、流砂もはげしく、葱嶺((底本「莣嶺」。諸本により訂正する。「葱嶺」は「そうれい」と読み、パミール高原を指す。))も昔に似ず。仏法すべて形(かた)なし。思ひ留まれ」とぞ、御託宣侍りける。仏法の衰へにけることを悲しみて、阿闍梨も心寂も、それより帰り給へりけり。 げに心憂きことかな。わが身の参らぬまでも、「昔、御法説かせ給ひし所々の仏法も、盛りに侍る」と聞くものならば、頼もしく侍るべきを、鷲の御山もあせ、白鷺池も草茂り侍るらん、いとど悲しく思え侍り。 昔、玄奘三蔵の渡天し給ひて、あまねく百三十ヶ国経めぐらせ給へりけるに、大乗流布の国は、わづかに十五ヶ国とこそ承はり侍り。それだに、今に失せにけん。悲しさやるかたなく侍る。人の心の、浮雲に空隠れする月とこそ、常在霊鷲山の心をば歌にも詠みたれ。げに隠れ果て給へるかとよ。今さら悲しく侍る。 されば、日を経て仏法は無くこそならめ。法灯の風にほのめきて、わづかにかかげる時、いかにも、生死を浮き出づるはかりごとを、めぐらし給ふべきにや侍らむ。 ===== 翻刻 ===== 昔三井寺の禅徒にて慶祚大阿闍梨と云 人いまそかりける知行共備て月輪観をこう し給けるには彼いほの松の木の上に明浄なる月顕 れ出給てまのあたりおかまれ給へりけるとかや このあしやり道心深くして昔尺尊の御法/k110r とき給へりける鷲峰山祇薗精舎なとのゆか しく思給へりけれは日数へてわたらんするい となみのみ侍けるには我もともなひ奉らんと 云人五十余人に及けるか幡磨国明石の浦 迄は卅人に落成給へり筑紫にては皆落給 てたた阿闍梨と心寂公とはかり二人に成給 えり宇佐の宮にまうてて舟路の程哀を 懸させ給へと祈給けるに神明中天竺の仏法 は跡もなし祇薗精舎は虎狼のふしと白 鷺池は草のみしけり流砂もはけしく/k110l 莣嶺も昔に似す仏法すへてかたなし 思留れとそ御詫宣侍りける仏法の衰 にける事を悲みて阿闍梨も心寂も其より かえり給へりけりけに心憂き事かな 我身のまいらぬまても昔御法とかせ給し 所々の仏法も盛に侍ると聞ものならは たのもしく侍へきを鷲の御山もあせ白 鷺池も草しけり侍らんいとと悲しく 覚侍り昔玄奘三蔵の渡天し給て 普く百三十ヶ国経廻せ給へりけるに大乗/k111r 流布の国は僅に十五ヶ国とこそ承はり侍り それたに今にうせにけん悲さやるかたなく侍る 人の心の浮雲にそらかくれする月とこそ常在 霊鷲山の心をは哥にもよみたれけにかくれ はて給へるかとよ今更かなしく侍るされは日 をへて仏法はなくこそならめ法灯の風にほ のめきて僅にかかける時いかにも生死を浮出る はかり事をめくらし給へきにや侍らむ/k111l