撰集抄 ====== 巻4第6話(30) 慶縁事 ====== ===== 校訂本文 ===== 過ぎにしころ、越(こし)のかたへまかり侍りしに、舟さか河を舟にてなん渡り侍りしに、齢(よはひ)二十(はたち)の内に見ゆる僧の、あてやかなるが、さしも寒き空に、一重なる白帷一つに、絹の一重なる衣着たる僧の、舟の中にて、人目もつつましげなる侍る。「いかなる人やらん」と、あはれに侍りしかども、「とかく聞こえ、憚りもぞ侍るべき」と思ひて侍るほどに、この舟さしの、櫂(かい)をも取らで、水にまかせて舟を下し侍りしかば、何となく、かく、   みなれざを取らでぞ下す高瀬川 と詠みて侍りしかば、これにありつる僧の、かく、   月の光のさすにまかせて と付けて侍りしあはれさに、とり続きて、「いかに。いまだ無下にいとけなくおはするに、ただ一人、いづちとて、かくいまそかるらん」と尋ね侍りしかば、「さしていづくと所もさだめず侍り。我は、奈良の京、東大寺に住み侍り。大臣得業慶縁といふ者に侍り」と言ひて、後はつひにのたまふこと侍らざりき。 さて、越路のかたへこそ越えおはし給へりしが((底本「ししか」。諸本により削除。))、「さやうの人の、いかなることにてか、出で給ふらん」と、いぶせく侍りしかば、またの年、東大寺に詣でて侍りしついでに、俊恵法橋に、「かかることなん侍りしは。いかなることにか侍りけん」と尋ね奉りしかば、「さることあり。さて、会ひ奉り給ひけるにこそ」とて、雨しづくと泣き臥し給へり。 ややしばらくありて、涙のごひなどし給ひて、「大臣得業慶縁とて、東南院の遺弟、久我大臣の御子に侍り。年はいまだいとけなくいまそかりしかども、いつしか内外の才知ほがらかにして、花実そなはり給へりしが、この三年(みとせ)のさき、神無月のころ、暁にはかに失せ給へり。   この世をば思ひ離れんとばかりに思へば鐘のうちさそふなり と、常におはしける障子に書き付けてなん、出で給へり。そののちは、ふつと見え給はず。今までもあはれなることには、鐘のうちさそひてなどして、忍びあひ侍るなり」と語り給ひしに、あはれさ身にしみて、やるかたなくて侍りき。 呉竹(くれたけ)の、まだ二葉にて、よよをこむる節の、日浅きほどのいとけなさに、思ひ立ちて出で給ひけん心の中、かへすがへす、貴くも侍り。何となく年も長けて、よろづ思ひ入るるほどの人だにも、思ひながら、慣れぬる住処の離れがたく、行くべき先のいぶせさに、さてのみはせ過ぎて、いたづらと年のみ長けぬるは、人の習ひなるぞかし。 しかるを、この得業の、「世を思ひ離れん」と思ふ鐘に、暁の鐘のうちさそひけるに、今さら心のもよほされて、むら雲迷ふ神無月、嵐はいとどはげしく、時雨は旅のもの憂きに、埴生の小屋にだにも腰も休めず、ことに冴えくらす越路のかたをさして、霜を重ぬる雪の上に、枯野の原を草枕として臥し給ひけん。「世を捨つ」といひながら、かへすがへすも、いとほしく思ひやられて侍り。 おろおろの心にては思ひ立ち給はじ。世々経たる、五戒十善のよき種々、この世のつとめにうち具して、はや世を秋風の身にしみて、この身には冴ゆる霜雪、嵐はこととも思え給はざりけるにこそ。 げにも、しづかに思ひとけば、この身を身とて惜しむべきには侍らざりけり。惜しむともかひあらじ。かぎりある命の尽きなんのちは、いたづらに朽ちはてて、鳥部((鳥部野))・舟岡((船岡山))の煙(けぶり)とも昇り、もしは野径の土ともなり、あるひは虎狼のために食せられて、心ばかりこそ無常の殺鬼にはとられ侍め((「侍らめ」は底本「侍らしめ」))。 しかあれば、この身は、ただ、しばしがほど心を宿す器物(うつはもの)なり。何とて、これに思ひをとどめ侍るべき。六趣の形、しなじななり((「しなじななり」は、底本「しななり」。諸本により補う。))。いくたびか、鳥獣ともなり侍りけん。その時は、また鳥の形をこそ愛しけめ((「愛しけめ」は底本「愛しそめ」。諸本により訂正。))。今また、この身を愛し侍りて鏡の影を見て、「にくからぬ形」と独り思ひをれる心のみ偽りにして、また悪趣に返り、さてもやみもせぬ幾万の形を受けて、明け暮れ苦しみを受けて、独り悲しみ、独り歎きをれらんは、いとどはかなかるべし、 はや、この身、思ひ捨て、わが身を惜しむ心を離れ侍らばやと思ひ侍れど、いかにも身の浮雲の厚く((底本「む心を」から「厚く」まで、本文を欠く。書陵部本等により補う。))そびきて、本有の月あらはれがたきにや。すべて、この心の付き侍らぬぞとよ。いかなれば、いとけなくして、行く末はるばるとおひ出で、三千の禅徒に、いつき、かしづかれ給ふべき人たちの、身をなきものにし給ひて、かき消ちいまそかるらん。 何に、かかるとしもなき老法師の、ただ心のままにあらせて、むなしくこの世を暮さんずらん。くちをしく思え侍るぞや。 ===== 翻刻 ===== 過にし比、こしの方へ罷侍しに舟さか河を舟 にてなんわたり侍りしによわひはたちの内 に見ゆる僧のあてやかなるかさしも寒き空にひとへ なる白帷一にきぬのひとへなる衣きたる僧の 舟の中にて人目もつつましけなる侍るいかな る人やらんと哀に侍りしかともとかく聞え憚 もぞ侍るへきと思ひて侍る程に此の舟さしの かいをもとらて水に任て舟をくたし侍りし/k103r かは無何かく みなれさほとらてそくたすたかせ川 と詠て侍りしかは此にありつる僧のかく 月のひかりのさすにまかせて と付て侍りし哀さにとりつつきていかにいまた 無下にいとけなくをはするにたたひとりいつち とてかくいまそかるらんと尋侍りしかはさして いつくと所もさためす侍り我はならの京 東大寺にすみ侍り大臣得業慶縁と云も のに侍と云て後はついにの給ふ事侍らさ/k103l りきさてこし地のかたへこそ越おはし給へりし しかさやうの人のいかなる事にてか出給ふらん といふせく侍りしかはまたのとし東大寺に まうてて侍りし次に俊恵法橋にかかる事なん 侍りしはいかなる事にか侍りけんと尋奉し かはさる事ありさてあひ奉り給ひけるに こそとて雨しつくとなき臥給へりややし はらくありて泪のこひなとし給て大臣得 業慶縁とて東南院の遺弟久我大臣の 御子に侍り年はいまたいとけなくいまそかり/k104r しかともいつしか内外の才知ほからかにし て華実備給へりしか此三とせのさき神無月 の比暁俄に失給へり この世をはおもひはなれんとはかりに おもへはかねのうちさそふなり と常におはしける障子に書付てなん 出給へり其後はふつと見え給はす今迄 も哀なる事にはかねのうちさそひてなと して忍合侍るなりと語給しに哀さ身 にしみてやるかたなくて侍きくれ竹の/k104l また二葉にてよよを籠るふしのひあさき 程のいとけなさに思立て出給けん心の中 返々貴も侍りなにとなく年もたけてよ ろつ思入るる程の人たにも思ひなからなれぬるすみか のはなれかたく行へきさきのいふせさにさて のみはせすきていたつらと年のみたけぬる は人のならいなるそかししかるを此得業の世 を思はなれんと思ふかねに暁の鐘の打さそひ けるにいまさらこころのもよほされて 村雲まよふ神無月あらしはいととはけしく/k105r 時雨は旅の物憂にはにふの小屋にたにも 腰もやすめす殊にさえくらすこしぢのかた をさして霜をかさぬる雪の上にかれのの原を 草枕として臥給けん世を捨といひなか ら返々もいとをしくおもひやられて侍り おろおろの心にては思ひたち給はし世々へたる 五戒十善のよき種々この世のつとめにうち くしてはや世を秋風の身にしみて此身には さゆる霜雪嵐はことともおほえ給はさり けるにこそけにも閑におもひとけは此身を/k105l 身とてをしむへきには侍らさりけり惜とも 甲斐あらしかきり有命のつきなん後は いたつらにくちはてて鳥部舟岡のけふりとも のほりもしは野径の土ともなり或は虎狼 の為に食せられて心はかりこそ無常の殺 鬼にはとられ侍らしめしかあれは此身はたた しはしかほと心をやとすうつは物也何とて これに思ひをととめ侍るへき六趣形しななり いくたひか鳥獣とも成侍りけん其の時は又 鳥の形をこそ愛しそめ今又此身を愛し/k106r 侍りてかかみの影を見てにくからぬかたちと ひとりおもひおれる心のみいつわりにして又 悪趣にかへりさてもやみもせぬいく万 のかたちをうけて明暮くるしみをうけて 独かなしみひとりなけきおれらんはいとと はかなかるへしはや此身おもひ捨て我 身ををしそひきて本有の月あらはれ かたきにや都て此心の付侍らぬそとよ いかなれはいとけなくして行末 はるはるとおい出三千の禅徒にいつきかし/k106l つかれ給ふへき人達の身をなき物にし給て かきけちいまそかるらん何にかかるとしも なき老法師のたた心のままにあらせて 空この世をくらさんすらん口おしく 思え侍るそや/k107r