撰集抄 ====== 巻4第1話(26) 真近別母発心 ====== ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、相模国に、土肥といふ所に、平三郎真近といふ弓取り侍りけり。いとけなかりける時、父は身まかりけり。そののちは成人なるまで、母のはぐくみにて、世をなんすぎ侍りけるなり。いみじく心猛くて、戦場の庭に一陣をかけずといふこと侍らざりき。 しかあるに、三十三といひける年、はからざるに母におくれ侍りぬ。残り留りて、歎き悲しむ理(ことはり)にも過ぎたり。兄弟といふもの、またも無かりければ、父母のあと、分くかたもなく譲り得ぬるにつけても、悲しくのみ思え侍りければ、法師になりて、七日七日の仏事をなん心に入れてとぶらひ聞こえける。 かくて五旬にもはせ過ぐるにも、あはれはいとど憂き身一つに積む心地の思えて侍りければ、家屋敷の後ろに、五間四面の檜皮葺(ひはだぶき)の堂いみじく造り営み、弥陀の三尊、めでたく飾り奉りて、ありとある田園、みな法華三昧勤むべき布施に思ひ当て、我が身は麻の衣の墨染にやつれて、いづちともなく出でにける後には、つひに行方も知られず侍りと、伝へ承はるに、あはれさやるかたなく思えて侍り。 まことに、親子の情はわりなくて、いくほどなき世の中にも、おくれ先立つわざを深く歎くめれど、日数むなしく移れば、思ひははるる末も侍り。また、歎きはやまざれども、移りし人の後世を、こまごまととぶらひなんとする人だにも、まれにいまそかるめるに、思ひ深くて仏を造り、堂を建てて、財をさながら三昧の布施に報うるだにも、ありがたく思えて侍るに、身をだになきものとなして、かき消ち失せにけん心中、げにげにありがたくぞ((「ありがたくぞ」は底本「有難に」。諸本により訂正。))侍る。 およそ、悲母の恩の深きことは、仏だにも、「一劫の間には、説き尽しがたし」とこそ、仰せられたむめれば、つたなきわれら、いかでかそのきはまりを、はかり侍るべき。はじめて胎内にやどりて、十月身を苦しめ、百八十石の乳を吸ひて、朝夕胸の間をつつき、膝と膝の上に遊びて、百度母の笑みを垂れて養ひ立てしありさま、有るは有るにつけて苦しみ、無きは無きにつけていとなみて、成人となるまで、よくあはれみを垂れられ侍る恩、いかばかりぞや。はかりて言ふべきにあらず。 しかあれば、いかにも「孝養報恩の志をいたさばや」と思ひぬれど、深く身にしむ心のなきままに、さてのみ日数も積みぬるぞかし。行きて、この世にながらへ給ふ父母にだにも、孝行の恩はおろかなり。いわんや、移りしのちは、ただしばしのほどの歎きにて、色の藤衣脱ぎ替へぬれば、さてのみこそ侍ることなるを、この人の、思ひ取りてさまを替へ、住み慣れし郷を離れて流浪し給ひけむ、貴さやるかたなく侍り。理(ことはり)をわきまへぬる人すら、かやうのことはいまだ見え侍らぬを、いかにとて、東夷のあらけなき心に、かくまで侍りけるぞや。げにむつしかりける人にこそ。 さても、「今はいづれの浄土にかいまそかるらん」と、かへすがへすゆかしく侍り。 ===== 翻刻 =====   撰集抄第四 中比相模国に土肥と云所に平三郎真近と 云弓取侍りけりいとけなかりける時父は身 まかりけり其後は成人なるまて母のはくく みにて世をなんすき侍りける也いみしく 心猛て戦場の庭に一陣を懸すと云事 侍らさりきしかあるに三十三と云ける 年はからさるに母におくれ侍りぬ残留 て歎悲む理にも過たり兄弟と云物又 もなかりけれは父母のあとわく方もなく譲得/k85l ぬるに付ても悲のみ覚え侍りけれは法師 に成て七日七日の仏事をなん心に入て訪 聞けるかくて五旬にも馳過るにも哀は いととうき身一に積心地の覚て侍りけれは 家屋敷の後に五間四面の檜皮葺の堂い みしく造営弥陀の三尊目出かさり奉て ありとある田園皆法華三昧つとむへき 布施に思当て我か身はあさの衣の墨 染にやつれていつちともなく出にける 後には終に行ゑもしられす侍りと/k86r 伝承に哀さやるかたなく覚て侍りまことに おやこの情はわりなくていくほとなき 世の中にもおくれ先立わさをふかく歎め れと日数むなしくうつれは思ひははるる 末も侍り又歎はやまされともうつりし 人の後世をこまこまと訪なんとする人たにも 希にいまそかるめるに思深て仏を造堂を立 て財をさなから三昧の布施にむくふるた にも有難く覚えて侍るに身をたになき物と なしてかきけち失にけん心中けにけに有/k86l 難に侍る凡悲母の恩の深事は仏た にも一劫の間には説尽し難とこそ仰 せられたむめれはつたなき我らいかてか其 きはまりをはかり侍へき始て胎内に やとりて十月身をくるしめ百八十石 の乳をすいて朝夕胸の間をつつきひさ とひさの上に遊て百度母のゑみを垂 て養立し有様有は有に付てくるしみ 無は無に付ていとなみて成人となるまて 能哀みをたれられ侍る恩いかはかり/k87r そやはかりて云へきに非すしかあれはいかにも 孝養報恩の志を致はやと思ぬれと深く 身にしむ心のなきままにさてのみ日数 もつみぬるそかしいきて此世になからへ給ふ 父母にたにも孝行の恩はおろかなり況や うつりし後は只しはしの程の歎にて 色の藤衣ぬきかへぬれはさてのみこそ 侍る事なるを此人の思取てさまを替 すみなれし郷を離れて流浪し給けむ 貴さやるかた無侍りことはりを弁ぬる人/k87l すらかやうの事はいまた見え侍らぬをいか にとて東夷のあらけなき心にかくまて 侍りけるそやけにむつましかりける人に こそさても今は何の浄土にかいまそかる らんと返々ゆかしく侍り/k88r