撰集抄 ====== 巻3第9話(25) 貧俗遁世 ====== ===== 校訂本文 ===== 過ぎにしころ、紀伊国のかたにまかりて侍りしに、葛城山の麓(ふもと)に、よも晴れわたりけるが、風などもさしもいたむべきほどにもあらぬ所に、あさましき庵あり。ただ身一つを隠すべきほどにこそ侍れ。 あはれにて、見侍るに((底本「に」なし。諸本により補う。))人なし。「あやしや、この所に住みける人も、すでに思ひ離るるにこそ」とあはれに思えて、しばらく休みして侍るに、けしかる男の五十(いそぢ)ばかりなるが、とかくかまへて、峰ざまに登りたるめり。見侍れば、寒き空に、袖も無き帷(かたびら)をなん肩に懸けけるが、この庵に入りつつ、うち休みて寝(いね)たり。 「こはいかに」とあやしくて、くはしく尋ね侍るに、「われ、世の中に侍りし時、たぐひもなく貧しき身にて侍しかども、ものの職になんかかりて、むさぼり過ぎ侍りしほどに、なすべき物きはまらずして、人のいたくはげしく、『恥ぢ恥ぢ』と申ししに、『ここにて、もろともにいたづらにこそなりなめ』と思ひ侍りしが、つらつら思へば、しばしがほどの世の中の名を惜しみて、後世をいたづらになし果てんことの、悲しく思え侍りしかば、日ごろ住みし家をなん、其のかたにわきまへて、『妻子は、なにとしても世をわたれ』と思ひて、かくまかりなるに侍り。今はかしこくぞ、かくうきふしのありて、世を捨ててけり。『さるべき知識にこそ』と思ひさだめて、嬉しく侍り。髻(もとどり)なん切りたく侍れども、『誰剃りてくるべし』とも思えぬままには、『よしよし、心だにも澄みなば、さまはとてもかくても侍りなん』と思ひて、すでに七ヶ廻り((七年))を経て侍り」となん語る。 聞き侍りしに、あまりにあはれに思えて、さまも知られず、庵(いほ)の前に伏しまろばれて侍りき。「さらば、髪剃りて奉らん」と言ひしかば、「それはよく侍りなん」と聞こえしかば、髪剃りて侍りき。 げに、ありがたかりける心かな。人の習ひ、わが身のひがみたるをば知らず、人のとかく言ひ侍るには、心に怨みを結びて、たちどころにいたづらになし出づるものなるを、あだなる夢の中の、しばしがほどの世の中には、「名をもうづめかし」と、思ひのどめてままに、未進をわきまへて、いとほしく、かなしき妻子をふり捨てて、人も問ひ来ぬ高まの山の、峰の白雲に臥して、明け暮れ弥陀の名号を唱へ((「唱」は、底本「習」に「唱歟」と傍書。傍書、諸本により訂正。))けんは、今ひときは、仏もいかにあはれと見そなはし給ひけんな。 所のありさまも、いたく澄みて思え侍り。見侍りしころは、神無月の十日あまりのことに侍れば、月は影する木々の無けれども、はれくもる光は、ひとかたならで、ものあはれなるを。木の葉がくれに行く嵐の、枯野のすすきに弱りて、そよめき渡り、世を秋風のはげしくて、涙に染むる紅葉の、もろく散るさまなんども、無常思ひ知られて、あはれなるぞや。 されば、義浄三蔵は、「好みて所を求めよ」とのたまひ、知朗禅師は、「心は所によりて澄む」なんどこそのたまふめれと思ひ出だされて、あはれにも侍るかな。 なほなほ、この男の発心まめやかに、やるかたなく、あはれに侍り。あやしの身にて、何とて、「この世はかりそめのわざ、来世は永き住処(すみか)」とは思ひけるぞや。しかるべき先の世に貯へける善種の、縁を得て開きけるにこそと、いみじく侍り。 み山おろしに夢覚めて、西に傾く月をば心とこそながめ侍り((「侍り」は、底本「侍る」。諸本により訂正。))けめと、かへすがへす、ゆかしく思ひやられ侍り。 ===== 翻刻 ===== 過にしころ紀伊国の方にまかりて侍りしにかつら き山の麓によもはれ渡りけるか風なともさし もいたむへきほとにもあらぬ所に浅増きいほり有/k77l たた身一をかくすへき程にこそ侍れ哀にて見侍る 人なしあやしや此所にすみける人も已に思離 るるにこそと哀に覚て暫休みして侍るにけし かる男の五そちはかりなるかとかく構て峰さまにの ほりたるめり見侍れはさむき空に袖もなき 帷をなん肩にかけけるか此いほりに入つつ打休みて いねたりこはいかにとあやしくて委尋侍るに我 世中に侍りし時類ひもなくまつしき身にて侍 しかとも物の職になんかかりてむさほりすき侍りし ほとになすへき物きはまらすして人のいたくはけ/k78r しく恥々と申しに爰にてもろともにいたつらに こそなりなめと思ひ侍しか倩思へはしはしかほと の世の中の名をおしみて後世を徒になし果ん事 の悲く覚侍りしかは日比すみし家をなん其のかたに わきまへて妻子はなにとしても世をわたれと思ひ てかくまかりなるに侍り今はかしこくそかくうきふ しの有て世をすててけりさるへき知識にこそと思 ひ定てうれしく侍り本とりなんきりたく侍れ共 たれそりてくるへしともおほへぬままにはよしよし 心たにもすみなはさまはとてもかくても侍なんと思ひて/k78l すてに七ヶ廻をへて侍りとなん語聞侍りしに 余に哀に覚てさまもしられすいほの前にふし まろはれて侍りきさらはかみそりて奉らんといひ しかはそれはよく侍りなんと聞しかはかみそりて侍 きけに有難かりける心かな人の習我か身のひかみ たるをはしらす人のとかく云侍るには心に怨を結 て立所にいたつらになしいつる物なるを仇なる夢 の中のしはしかほとの世中には名をもうつめかしと 思ひのとめてままに未進をわきまへていとをしく 悲き妻子をふり捨て人も問こぬたかまの山の/k79r 峰の白雲に臥て明暮弥陀の名号を習(唱歟)へけんは 今一きは仏もいかに哀と見そなはし給けんな所の ありさまもいたくすみて覚え侍り見侍りし比は 神無月の十日あまりの事に侍れは月はかけする木々 の無れともはれくもる光は一方ならて物哀なる を木の葉かくれに行嵐のかれののすすきに弱りて そよめき渡り世を秋風のはけしくて泪に染る 紅葉のもろくちるさまなんとも無常思ひ知 れて哀なるそやされは義浄三蔵は好て所を 求めよと宣ひ知朗禅師は心は所によりてす/k79l むなんとこその給ふめれと思出されて哀れにも侍る 哉猶々此男の発心まめやかにやる方なく哀に 侍りあやしの身にて何とて此世はかりそめのわさ来 世はなかきすみかとは思ひけるそや可然先の世に たくはへける善種の縁を得て開けるにこそと いみしく侍りみ山おろしに夢覚て西に 傾く月をは心とこそなかめ侍るけめと返々 ゆかしく思ひやられ侍り/k80r