撰集抄 ====== 巻3第8話(24) 正直房被人仕 ====== ===== 校訂本文 ===== 美濃国と聞きしやらん、中ごろ、その国にあやしの僧、里をめぐりて、人に宮仕ふ侍りけり。いみじく心ばへわりなくて、何ごとにも心得たりければ、人にも、「われも、われも」と争ひ雇ひ((「雇ひ」は底本「やからい」。諸本により訂正。))侍る。二三日づつなん、つかへけり。わざと一つ所には久しくは居ずぞ侍りける。 心だてのいふべきかたなく素直に侍りければ、「正直房」と名付けて呼ぶ人もあり、また「直心」などなん、いふやからも侍りけるとかや。 その里にめぐりつかふるわざ、五年(いつとせ)ばかりを経て、かき消ち見えずなりにければ、誰もあやみ忍びあひて、あまねくたづねけるに((「に」は底本「よ」。諸本により訂正。))、 ある山の麓(ふもと)に、西に向ひて、うるはしく座して、手を合はせて、気絶え侍りぬ。 そばなる木に、かく書きたり。 >保延二年二月十五日、百(もも)すぢり房、曲るながら往生しぬ と、めでたき手にて書きたる。 あまりに悲しく貴くて、その国の人々、皆々力を合はせて、いささかもたがはず、形体をなん 写しとめて、置き奉りて侍り。その姿は、髪なども長くて、帷(かたびら)一つに、檜笠(ひがさ)といふもの、しき給ひつるなりと、語り侍しを聞くに、随喜の涙せきかねて侍りき。 いかなる智者の、一挙万里によりて徳を隠し、五年のほど、心安きつぶねとなりていまそかりけん。今さら、保延の昔、恋しく侍る。また、わざと一所に久しく跡をはとめ給はざりけむも、「さだめて深き心侍らん」と思えて貴し。よも、美濃国ばかりには限り給はじものを。ほかの国にても、つぶねとなりてこそは、またさるべき縁尽きて、この国にて隠れ果て給ひけるにこそ侍らめと、あはれに思えて侍る。 「げに((底本「としてもけに」。諸本により削除。))、はては隠れもなきものを、何なかなかに徳をしづめ給ふらん」と、悲しう思え侍る。心の潔く澄めるほどは、いくらばかりと、はかりいふべきふしも思えず。さても、「百すぢりゆがみ房」とこそ書き給ひぬるに、「何とて、心いたく素直にはおはしけるやらん」と、をかしく思えて侍る。 このこと聞き侍りしに、あまりに貴く侍りしかば、「かの国にまかり下りて、写し留め奉る姿をも拝見し侍らん」と思ひ給へて、すでに備前の細谷川まで出で侍りしが、心地の悩しくて、行く先の道もいぶせく思ひやられ侍りしかば、そこより思ひ返して、吉備津宮に帰り侍りき。 その後は、つれもなき心にて、いつも朽ちせぬ御形にし侍ればと、心一つをやりて、今は年のたけぬるぞかし。「よく縁も薄く侍るにこそ」と、かへすがへす心憂く侍り。しかあれども、宵暁の心の澄む時は、野寺の鐘のつくづくと思ひ出だされ奉りて、そぞろに涙のもれ出づるに侍る。 「あはれ、貴くて、こればかりの心なりとも、やがて暁の鐘の声よりして、うちつづきさめぬことにて侍れかし。何とあればか、心にかはりて、世を秋風の身に入りて、思ひ離るる人もいまそかるらん」と、うらやましく思えて侍れば、「縁起難思の徳は、さりともむなしからじ」と、頼もしく思えて侍り。 げに、心の澄み居なんのちには、いかならん友にまじはるとても、などかは乱るべき。「ますますこそ、澄み侍らめ」と、ゆかしく侍るぞや。 この世は、はかなきつぶねの、僧の姿にてこそおはすとも、今は安養界の聖衆につらなりましますか、また、碧落遥かに隔たる、都率陀天((兜率天に同じ。))の雲の上にもや生れ給ひけん。また、さもあらず、補陀落の南の岸にいまして、大悲の法文をいつも耳にふれ給ふ聖衆にもやまじはり給ふらん。 御形代は、独り浮世の中に残りて、旧き情をとどめ給へり。げに、いとどあはれさ、やるかたなく思えて侍り。 ===== 翻刻 ===== 美濃国と聞しやらん中比其国にあやしの僧里 を廻て人にみやつかふ侍りけりいみしく心はへわり なくて何事にも心得たりけれは人にも我も我もとあら そひやからい侍る二三日つつなんつかへけりわさと一つ 所には久しくはいすそ侍りける心たての云へき方な くすなをに侍りけれは正直房と名付てよふ人も あり又直心なとなん云ふ族も侍りけるとかや其里に/k75r 廻りつかふるわさ五とせはかりをへてかきけち見え すなりにけれは誰もあやみ忍合て普く尋けるよ ある山のふもとに西に向てうるはしく座して手を 合て気たへ侍りぬそはなる木にかく書たり保延 二年二月十五日ももすちり房まかるなから往生しぬと目 出き手にて書たる余にかなしくたうたくて其国の 人々皆々力を合ていささかもたかはす形体をなん うつしとめて置奉て侍り其姿はかみなとも長く て帷一にひかさと云物しき給つる也と語侍しを 聞に随喜の泪せきかねて侍りきいかなる智者/k75l の一挙万里によりて徳をかくし五とせの程心安 きつふねとなりていまそかりけん今更保延の昔 恋しく侍る又わさと一所に久跡をはとめ給はさりけ むも定てふかき心侍らんと覚てたうとしよも みのの国はかりには限り給はし物を外の国にても つふねとなりてこそは又さるへき縁尽て此国にて 隠はて給けるにこそ侍らめと哀に覚て侍る としてもけにはては隠もなき物を何中々に 徳をしつめ給らんと悲ふ覚侍る心の潔く澄める ほとはいくらはかりとはかりいふへきふしも不覚さて/k76r も百すちりゆかみ房とこそ書給ぬるになにとて 心いたくすなほにはをはしけるやらんとおかしく覚 て侍る此事聞侍りしに余に貴く侍りしかは彼 国に罷下て移し留奉る姿をも拝見し侍らんと 思給てすてに備前のほそ谷川まて出侍りしか心 地の悩しくて行さきの道もいふせく思ひやられ 侍りしかはそこより思返てきひつ宮に帰り侍りき 其後はつれもなき心にていつも朽せぬ御かたち にし侍れはと心一をやりて今は年の闌ぬるそかし よく縁もうすく侍るにこそと返々心憂侍りし/k76l かあれともよひ暁の心のすむ時は野寺の鐘の つくつくと思出され奉りてそそろに泪のもれ出る に侍る哀貴て是はかりの心なりともやかて 暁の鐘のこゑよりして打つつきさめぬ事にて 侍れかし何とあれはか心にかはりて世を秋風の 身に入て思離るる人もいまそかるらんと浦山敷 覚て侍れは縁起難思の徳はさりともむなしから しと憑母敷覚て侍りけに心のすみ居なん後に はいかならん友にましはるとてもなとかは可乱ますます こそすみ侍らめとゆかしく侍るそや此世ははかなき/k77r つふねの僧の姿にてこそをはすとも今は安養 界の聖衆につらなりましますか又碧落遥へ たたる都率陀天の雲の上にもや生れ給けん又 さもあらす補陀落の南の岸にいまして大悲の 法文をいつも耳にふれ給ふ聖衆にもやましはり 給ふらん御形代は独浮世の中に残て旧き情を ととめ給へりけにいとと哀れさやる方なく覚て侍り/k77l