撰集抄 ====== 巻3第6話(22) 宝日上人(歌) ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、御室戸の法印隆明((底本「澄明」。以下同じ。))といふやんごとなき智者、唐土(もろこし)に渡り給はんとて、西の国におもむきて、播磨の明石といふ所になん、住みていまそかりけるに、あさましくやつれたる僧の来て、ものを乞ひ侍り。さながら、あかはだかにて、犬子(ゑのこ)を脇に抱(いだ)き侍り。人、後先(しりさき)に立ちて、笑ひなぶりける。 「あやしの者や」と思して見給へば、清水寺の宝日聖人にていまそかりける。「僻目(ひがめ)にや」と、よく見給へど、さながらまがふべくもあらざりければ、かき暗さるる心地して、伏しまろびて、「あれは、めづらかなるわざかな」とのたまはせければ、聖人、頬笑(ほほゑ)みて、「まことに物に狂ひ侍るなり」とて、走り出で給ふめるを、人、あまたして取り留め奉らんとし侍りけれども、さばかり木暗き茂みが中に入り給ひぬれば、力なくやみ侍りけり。 隆明法印は、あまりすべきかたなく、悲しく思え給ひて、そのこととなく、その里にとまり居給ひて、広くたづねいまそかりけれども、そののちはまたも見えずなり給ひにき。さて、里の者に、くはしく事のありさまを問ひ給へりければ、「いづくの者とも人に知られで、この村に住みても、二十日ばかりなり」とぞ答へ侍りける。 このこと、かぎりなくあはれに思え侍り。何と、げに世を捨つといふめれど、身のあるほどは、着物をば捨てずこそ侍るに、あはれにも、かしこくも思え侍るかな。 およそ、この聖人は、よろづ物狂はしきさまをなんし給へりけるなり。ある時は、清水の滝の下に寄りて、盒子(がうし)といふものに水を受けて、隠れ所をなむ洗ひ給ふこと、つねのわざなり。いみじくしづかに思ひ澄まし給ふ時も侍るめり。ひとかたならずぞ見え給ひし。澄みわたる心のうちは、いつも同じさきなれども、外の振舞ひは、百にかはりけるは、「よしなき人の思ひを、我のみひとかたには留めじ」と思しけるにや。 このの聖人ぞかし、中関白((藤原道隆))の御忌に、法興院にこもりて、暁方に千鳥の鳴くを聞き給ひて、   明けぬなり賀茂の川原に千鳥鳴く今日もはかなく暮れむとぞする と詠みて、『拾遺集((『拾遺和歌集』。ただし、「明けぬなり」の歌は『後拾遺和歌集』1014にある。))』に入り給へり。明けぬるより、はかなく暮れぬべきことの、かねて思はれ給へりけるにこそ。かの『拾遺集』には円松法印と載りて侍るは、聖人のことにこそ。 ===== 翻刻 ===== 昔御室戸の法印澄明と云やんことなき智者も ろこしに渡給はんとて西の国に趣て幡磨の明 石と云所になん住ていまそかりけるに浅ましく やつれたる僧の来て物を乞侍りさなからあかは/k71r たかにてゑのこをわきにいたき侍り人尻さきに 立て笑なふりけるあやしの物やとおほして見給へは 清水寺の宝日聖人にていまそかりける僻目にやと よく見給へとさなからまかふへくもあらさりけれはかき くらさるる心地して伏まろひてあれはめつらかなるわ さかなとの給はせけれは聖人ほほゑみて実に物に 狂ひ侍るなりとて走出給ふめるを人余多してとり 留め奉らんとし侍りけれ共さはかり木くらきしけみ か中に入給ぬれは力なくやみ侍りけり澄明法印 はあまりすへき方なく悲く覚給て其事となく其/k72r 里にとまり居給て広く尋いまそかりけれとも其 後は又も見えす成給ひにきさて里のものに委く 事の有さまを問給へりけれはいつくのものとも人に しられて此村にすみても廿日はかりなりとそ答侍 ける此事無限哀に覚侍り何とけに世を捨といふ めれと身の有程はき物をはすてすこそ侍るに 哀にも賢もおほえ侍る哉凡此聖人は万物くるはし き様をなんし給へりける也或時は清水の滝の下に 寄てかうしと云物に水をうけてかくれ所をなむ あらひ給ふことつねの態也いみしくしつかに思澄/k72l 給ふ時も侍るめり一かたならすそ見え給しすみ渡る 心のうちはいつもおなしさきなれ共外のふる舞 は百に替けるは無由人の思を我のみ一方にはととめしと おほしけるにや此の聖人そかし中関白の御忌に法 興院に籠て暁方に千鳥の啼を聞給て あけぬなりかもの川原に千とりなく けふもはかなくくれむとそする と読て拾遺集に入給へりあけぬるよりはかなく くれぬへき事の兼て思はれ給へりけるにこそ彼 拾遺集には円松法印とのりて侍るは聖人の事にこそ/k73r