撰集抄 ====== 巻2第7話(15) 本来無去(禅僧) ====== ===== 校訂本文 ===== 播磨国と聞こえしなんめり。おぼろげならでは人もかよはぬ山の中に、杣(そま)する人の三人(みたり)つれて入り侍りけるが、「山中を見めぐりけるに、山の谷あひに、木暗きこともいたくはなかりける所に、木の枝・木の葉などにて、とかくかまへたる、形ばかりなる庵に、木の葉を敷きつつ、黒き衣ばかり着たる僧の死て侍りけるを、鳥の来てありけると覚えて、目なんども突き損じて侍り。かたはらに、けしかる硯・筆ばかり侍り。大きなる木に、かく書き付け侍り。   死生共に死生にあらず。無来無去にして本来寂静なり。 と書きたりと語り侍りけれど、その里の人、たづねいたりて見ることもなく、やみ侍りし」と伝へ聞きき。 いかなる人にていまそかりけん。かへすがへすゆかしく侍り。谷の深きに隠居して、峰の松風に思ひをすます禅僧にこそ。いづれのころより、かの所に住みけん。庵なんどは神さびて古めかしき((底本「ふるめしき」。諸本により「か」を補う。))さまに見えけるなれば、年経けるにこそ。「何とて露の身をささゆるわざも侍りけるやらん」と、心苦しく貴く侍り。 生死も生死にあらず、また、来も去もこれには侍らざりけん。「心の中、やるかたなく澄みわたり侍りて、かやうの座禅などは、世の末にはかたかるべし」など言ふ人も侍りければ、かならずしも、さは侍るまじきにや。片岡山のわび人の、機も餓ゑて、臥していまそかりけることなんどを伝へ聞き侍るには、「座禅の機は、なかなか当時そのころにや侍らん」と思え侍り。 あはれ、貴かりけることかな。硯よりほかには何も持たざりけんも、よしありて思え侍り。世をのがるる人のありさま、しなじなに侍れども、海の辺、深山のすまひは、ことにうらやましくも侍れど、さしあたつては、身一つ助くる粮(かて)のはかりがたさに、独居の太山のすまひもかなひがたくて、世に経るぞかしな。 せんは、ただこの身を惜しみ、かへりみる思ひの、はなはだしきにこそ侍れ。何にかこの身を惜しむべき。惜しまずは、などか山深く思ひ澄まさで侍る。そもそも、「本来寂静なり」とは、何の寂静ぞや。「無来無去なり」とは何のものをか指し侍りけん。 ===== 翻刻 ===== 幡磨国と聞えしなんめりおほろけならては人も かよはぬ山の中にそまする人のみたりつれて入侍り けるか山中を見めくりけるに山の谷あひに木くらき 事もいたくはなかりける処に木の枝木の葉なとにて とかく構たる形はかりなる庵りに木の葉を敷つつ 黒き衣はかり着たる僧の死て侍りけるを鳥の来 て有けると覚て目なんともつき損て侍傍に けしかる硯筆はかり侍り大なる木にかく書付侍り/k50l 死生共に死生にあらす無来無去にして本来 寂静なり と書たりと語り侍りけれと其里の人尋至て 見る事も無く止侍りしと伝聞きいかなる人にていま そかりけん返々ゆかしく侍り谷の深に隠居して 峰の松風に思をすます禅僧にこそいつれの此より 彼所に住けん庵なんとは神さひてふるめしきさま に見えけるなれは年へけるにこそ何とて露の身を ささゆるわさも侍りけるやらんと心苦く貴く侍り 生死も生死に非す又来も去も是には侍らさりけん/k51r 心の中やるかたなくすみ渡侍りてかやうの坐禅な とは世の末には難かるへしなと云人も侍りけれは必 しもさは侍るましきにや片岡山のわひ人の機もうへ て臥ていまそかりける事なんとを伝え聞侍るには 坐禅の機は中々当時其比にや侍らんとおほえ侍り 哀れ貴かりける事かな硯より外には何ももたさり けんもよしありて覚侍り世をのかるる人の有様しな しなに侍れとも海の辺深山のすまひは殊に浦山 しくも侍れとさしあたつては身一たすくる粮 のはかりかたさに独居の太山のすまひも難叶て世に/k51l ふるそかしな詮はたた此身を惜顧思のはなはた しきにこそ侍れなににか此身をおしむへきおしますは なとか山ふかく思澄さて侍る抑本来寂静なりとは 何の寂静そや無来無去なりとは何の物をかさし 侍りけん/k52r