撰集抄 ====== 巻2第4話(12) 花林院発心(山階) ====== ===== 校訂本文 ===== さいつころ、帥大納言経信((源経信))の、田上(たなかみ)といふ山里に住み給ける。長月の下の弓張のほど、たそがれ時になりて、齢六十(むそぢ)にかたぶきて、まみ・ありさま、まことにかしこく、やんごとなき僧の入り来て、ものを乞ふこと侍り。 姿はことにやつれぬれど、いかにもただ((「ただ」は底本「思」。諸本「只」などにより訂正。))にあらずと見え侍りければ、大納言、とどめきこえて、さまざまにいたはりなんどして、夜更けぬるほどに、ひそかにこの僧を人しづかなるかたに招きて、「いかなる人の、何とて、かくはおはするにか」と尋ねられければ、はかばかしく言ひやりたることも侍らず。「世わたらひの乏(とも)しく侍りしままに、かくまかりなりたり」と聞こふめれど、なほ、「げにも」とも思えねば、あながちに尋ね給ふ時、この僧、泣く泣くうちくどきて言ふやう、「われは興福寺花林院といふ所に住み侍る者なり。公家の梵筵にも、年を経てつらなり、位階をも、心のままにのぼりて侍りしが、先世の宿業にや侍りけん、年のまかり老ひぬるにしたがひて、かたはらの寂しく侍りしに、思はざるに、けしかる女とつれて侍りしほどに、しばしはつつみ侍りしかども、天の下三笠の山のかひもなく、漏りて人の知り侍りしかば、さやうのわざする身をば置かぬことに侍れば、一寺おこりて追ひ侍りしほどに、するかたもなきままに、かくまかりなりて侍り。かの女、捨てがたくて、ひちさげ侍れば、『浮世のほだし、げにこれならん』と思えて侍るなり」と聞こえさすれば、思はずながらあはれに思して、「しかあらば、その人をももろともに思ひあて侍らん。これに住み給へ」とのたまはせ侍れば、「いといと嬉しきことにこそ侍らめ」とぞ言ひける。 さて、大納言も帰り入り給ひて、明くるや遅きと、かの所におはして見給ふに、ありし僧はなくて、めでたき手にて、一首の歌をぞ書きたりいける。   うしやげに田上山(たなかみやま)の山さびてのりの道芝あとしなければ と書きて、つひに見えずなり給ひぬるいぶせさよ。 かの大納言、興福寺の官主、内さまにつきて、くはしく尋ね給へりけるに、「花林院永玄僧正といふ人、年ごろ世をのがるる心深くて、たびたび閑かにこもり給へりしを、寺惜しみ留め奉る。心にもあらずながら、延べ給ひしほどに、いにし皐月のころ、官主あがるべきよし、その聞こえ侍りしかば、はや跡なく失せ給ひにしかば、弟子どもも、うつつ心なくて侍り。いづくにこそおはすとも聞かざりしかば、流浪し給ふらんよ」とて、玄覚官主のすずろに泣き給ふなり。「姿・ありさま、いささかもたがはず」とて、大納言もあさましくて、しほれ給へりけり((底本「けれ」。諸本により訂正。))と。 このこと、承はり侍るに、ものも思えず悲しく侍り。遠(とを)つ国の清き山水の流れを求めて、ものさはがしき君が代にはすまぬまされり((「まされり」は底本「まさり」。諸本により訂正))。世を「憂し」と思ひ、または、「けがさじ」など言ふ衣の色は、昔、奈良の京の御時、わづかに伝へ聞く、玄賓の昔の跡にこそ。およそ、多く世をのがるる人の中に、山田守僧都((玄賓のこと。))のいにしへは、聞くもことに心の澄みて貴く侍りしか。今の僧正のありさま、出で来しかた、思ひやる末にも、ありがたくぞ侍るなり。 およそ、人のならひ、世をそむくまでも、「骨をば埋(うづ)むとも、名をは埋むまじ」と思ふめるに、よしなき色にふけりて、寺を離るるよしの偽りを述べられけん心の中、思ひやられて、分くかたなくあはれに侍る。止観((『摩訶止観』))の文かとよ、「まことを隠し、狂をあらはせ」と侍るはこれならんと、思えて侍り。 しかれば唐土(もろこし)にも、この国にも、げにげにしく世をのがるる人は、みなかやうに侍るとかや。げに、人にはつたなき者と思ひ下されて、心一つに思ひすまして侍らんは、いみじく澄みわたりてぞ侍るべき。 さてまた、あちこちさそらへ行かんに、心にかなはぬ所あらば、思ひ離るるぞかしなんど、そぞろにゆかしく侍り。世を捨つとならば、かくこそあらまほしくて、身の力もいたく疲れ侍らざりしころ、広く国々にへまはりて、やうごとなき寺々、おもしろき所々に徘徊し侍りしが、さしあたりて身の憂へも忘られ侍りしかば、「かくて一期を過ごしたらんも、罪深からじ」と思え侍りき。いはんや、発心堅固にして、心もかしこく、さきらあらん人の、なじか心も澄まで侍るべき。 越(こし)の白山雪積りて、老曽(おひそ)の森のははき木、風になびきやすし。佐野の野原のほや薄(すすき)そよめきて、同じ心の末葉の露は、風に乱れてしどろなるありさま。木曽のかけはし、佐野の船橋なんど見侍りしに、心も留まるべきほどなり。逢坂の関の関守とめかねし、秋来し山の薄紅葉、見過し((「見過し」は底本「みすてし」。諸本により訂正))がたく浜千鳥、跡ふみつくる鳴海潟(なるみがた)、富士の山辺は時知らぬ、かのこまだらの雪残り、浮島が原、清見が関、大磯小磯の浦々は、過ぎがたく侍るぞや。この僧正は六十(むそぢ)に傾き給ひぬれば、さやうの所を見いまそからんも、かなはでや侍らん。 さても、何なる所に思ひ澄ましておはすらん。かへすがへすゆかしく侍り。「あはれ、この身を思ひ捨つる心、いささかなりともつけねかし」と思えて侍るぞや。 ===== 翻刻 ===== さいつころ帥大納言経信の田なかみと云山里に住 給ける長月の下の弓張の程たそかれ時になりて 齢六そちに傾てまみ有様実賢やん事なき 僧の入来て物を乞事侍り姿はことにやつれぬれと/k41r いかにも思に非すと見え侍りけれは大納言留聞て さまさまにいたはりなんとして夜ふけぬる程に窃 に此僧を人しつかなる方に招ていかなる人の何とて かくはおはするにかと尋られけれははかはかしく云 やりたる事も侍らす世わたらひのともしく侍り しままにかく罷なりたりと聞ふめれと猶けにもと も覚ねは強に尋給ふ時此僧なくなくうちくとき て云やう我は興福寺花林院と云所に住侍る者也 公家の梵筵にも年をへて連り位階をも心のままに のほりて侍りしか先世の宿業にや侍りけん年/k41l のまかり老ぬるに随て方はらの寂しく侍りしに おもはさるにけしかる女とつれて侍りし程にしはし はつつみ侍りしかとも天の下みかさの山の甲斐も なくもりて人の知侍りしかはさやうのわさする身 をはをかぬ事に侍れは一寺発ておい侍りし程に する方もなきままにかく罷成て侍り彼女捨かたくて ひちさけ侍れはうき世のほたしけに是ならんと 覚て侍る也と聞えさすれはおもはすなから哀に おほしてしかあらは其人をももろともに思ひあて侍 らん是にすみ給へとの給はせ侍れはいといとうれし/k42r き事にこそ侍らめとそ云けるさて大納言も帰り 入給て明るやをそきとかの所におはして見給に有 し僧はなくて目出手にて一首の哥をそ書たりいける うしやけに田なかみ山のやまさひて のりのみちしはあとしなけれは と書てつゐに見えすなり給ぬるいふせさよ彼大 納言興福寺の官主内さまに付て委く尋給へ りけるに花林院永玄僧正と云人年ころ世を遁 るる心深て度々閑に籠り給へりしを寺をしみ 留奉る心にも非ずなからのへ給し程にいにしさ月/k42l の比官主あかるへきよし其聞侍りしかははやあと なく失給にしかは弟子とももうつつ心なくて侍り いつくにこそおはすとも聞さりしかは流浪し 給ふらんよとて玄覚官主のすすろになき給ふ也 姿有様聊もたかはすとて大納言も浅増てしほ れ給へりけれと此事承侍るに物も不覚悲く侍り とをつ国の清山水の流をもとめて物さはかしき君 か代にはすまぬまさりよをうしと思ひ又はけかさし なと云衣の色はむかしならの京の御時僅に伝聞 玄賓の昔の跡にこそ凡多世をのかるる人の中に/k43r 山田守僧都のいにしへは聞も殊に心のすみて貴く 侍りしか今の僧正の有様いてこしかた思ひやるすゑ にも難有そ侍る也凡人の習世を背まても骨 をはうつむとも名をは埋ましと思ふめるによしなき色に ふけりて寺を離るるよしのいつはりをのへられけん 心中思ひやられてわくかたなく哀に侍る止観の 文かとよ実をかくし狂を顕せと侍るは是ならんと 覚て侍りしかれはもろこしにも此国にもけにけに しく世をのかるる人はみなかやうに侍るとかやけに人 にはつたなき物と思ひ下されて心ひとつにおもひすま/k43l して侍らんはいみしくすみ渡りてそ侍へきさて又 あちこちさそらへゆかんに心に叶はぬ所あらはおもひ はなるるそかしなんとそそろにゆかしく侍り世を捨 とならはかくこそあらまほしくて身のちからもいたく つかれ侍らさりしころ広く国々に経まはりてやう ことなき寺々面白所々に徘徊し侍りしか指当 て身のうれへも忘られ侍りしかはかくて一期を過 したらんも罪深からしと覚侍りき況や発心 堅固にして心もかしこくさきらあらん人のなしか 心もすまて侍るへきこしの白山雪積て老曽の杜の/k44r ははき木風になひきやすし佐野の野原のほや 薄そよめきて同心のすゑ葉の露は風に乱てしと ろなる有様木曽の梯佐野の船はしなんと見侍 しに心も留るへき程なり逢坂の関の関守とめ かねし秋こし山の薄紅葉みすてしかたく浜千鳥 跡ふみつくるなるみかたふしの山辺は時しらぬかのこ またらの雪残り浮島か原清見か関大礒小礒の 浦々は過かたく侍るそや此僧正は六そちに傾き 給ぬれはさやうの所を見いまそからんもかなはて や侍らんさても何なる所に思澄ておはすらん返々/k44l ゆかしく侍り哀此身を思すつる心いささかなり ともつけねかしと覚て侍るそや/k45r