撰集抄 ====== 巻2第1話(9) 一和僧都(春日託宣) ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、興福寺の僧にて、一和僧都といふ人あり。智行ともにそなはりて、僧都の位にのぼり給へり。のちには、世をのがれて、外山といふ山里に住みわたり給へりけるとかや。そのかみ、『遊心集』を見侍りしに、この僧都のありさま、おろおろしるし載せて侍りしは。 かの興福寺維摩会とて、いふべきかたなくめでたき法会侍る。講師は八宗の明匠、ときの名高きを撰び給ふことにこそ。読むなる縁起は、菅丞相((菅原道真))の御筆、かけまくもかしこき神の詔(みことのり)に侍り。持つなる如意は、聖宝僧正の道具とぞ。勅使立ちなんどして、ことにやんことなき無上の梵筵に侍り。 しかあれば、かの講師に応ずるをもつて、道立たなむ思ひ出とし侍るなり。この一和僧都、「かの撰に入らんずらん」と思ふほどに、はからずして性延といふ人に越されにけり。「なにごとも前世の宿業にこそ侍らめ」と、思ひとどめ給へども、なほ、しのびがたく侍りければ、「長く本寺を離れて、斗薮((底本「年薮」。諸本により訂正。))修行の者ともなれかし」と思ひて、弟子どもにも、かくとも知らせず、本尊・持経ばかり竹の笈(おひ)に入れ納めて、ひそかに三面の僧坊を立ち出でて、四所の社檀に詣でて、泣く泣く今は限りの法施奉り給ふ。心の中のいぶせさは、さながら思ひやられて侍り。 さすがに、住みなれし寺も離れがたく、なれぬる友も捨てがたくや侍りけん、さしていづくとしも行く先も定め給はざりけれども、あづまぢの方におもむきて、尾張の鳴海潟(なるみがた)にも着き侍りぬ。 潮干(しほひ)のひまをうかがひて、熱田の社に参られ侍りしは、法施など奉りて侍りけるに、けしかる禰宜の出で来たりて、一和をさして言ふやう、「なんぢ、恨みをふくめることありて、本寺を離れり。迷へる人のならひ、恨みは絶えぬものなれば、ことはりにし侍れども、心にかなはぬは世なり。陸奥国、えびすが城へと思ふとも、そこにもつらき人あらば、またいづれの所とてか越え行かん。ただ、いそぎ本寺に帰りて、日ごろの望みをとぐべし」と侍る。 時に一和、頭をたれ、「思ひもよらぬ仰せかな。かかる乞食修行者に、何の恨みか侍るべき」と言ふに、禰宜、おほきに嘲(あざけ)り侍りて   つつめども隠れぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり といふ歌の古きを出だして、「なんぢ、おろかなり。さらば示して聞かせん。なんぢ、維摩の講師を性延に越されて、恨みをふくむにあらずや。かの講師といふはよな、帝釈の札に記するなり。そのついで、すなはち、性延・一和・義操・観理とあるなり。帝釈の札に記しぬるも、これ、昔のしるべなり。とくとく、憂き念をやめて、本寺に帰るべきなり。なんぢは、さらに情けなく、われを捨つといへども、われはなんぢを捨てずして、これまでしたひ示すなり。春日の山の老骨、すでに疲れぬ」とて、上がらせ給ひにければ、一和、かたじけなく、貴く思ひて、いそぎ帰り上りにけり。 結び重ぬる草枕、涙の露のしどろにて、急雨(むらさめ)晴るる秋の野原の心地して、幾しほがまの染衣、すすがれ果てて侍りけん。「げに」と思えて、あはれに侍り。 このこと、書きおく跡を見侍りしに、そぞろに涙落ちて侍りき。恨みは誰も((底本「は誰」なし。諸本により補う。))かはり侍らぬに、年を経て住みなれにし所の思ひ捨てがたきに、やすくも立ち別れ給へりけん心の中は、さぞ、なかなか澄みておはしけんな。また、「なんぢは、さらに情けなく、われを捨つといへども、われはなんぢを捨てずして、これまで示すなり」と御託宣の侍りける、承はるに、そぞろに袂のしぼりあへず侍る。 およそ、仏の世にあらはさせ給ふなり。仏法の世にあらはれさせ給へりしには、地獄の衆生まで参り集りて、みな得益を得侍りき。われら、むなしく御出世にもれぬ。三会の暁もはるかなる、闇の中に生をうけて、ただ明け暮れは夢にのみばかされて、同じ瀬に立つ水の泡の、流れ消ゆる心地して侍り。われらをあはれと見そなはして、「釈迦大師の亡きあとの衆生を救ひ給はん」とて、神と現じ給ひて、今もかの一和を利し給ふにこそ。ここ住よしにあらずとて、藻塩の煙の風になびくをまもり、浜千鳥のあとをたづねて、あらぬすみがまの浦にたづねいたりて、住処(すみか)とせんに、そこにもつらき人あらば、またいづちとてか行くべきな。 浄土にあらずは、心かなふ所侍らじ。聖衆にまじはらずは、思ふにしたがふ友もなからんずるものにこそと、今の御託宣、身に入りて思え侍り。 くちをしきかな、心と苦しき所に留り居て、そぞろに胸をこがすことを。そもそも、この維摩会を帝釈の札にしるし給ふらん、ありがたく思えて侍り。「世々を経ても((底本「世にせつても」諸本により訂正。))、かの講師に望まざりければこそ、かくつたなく、さきもあさき身と生れけめ」と、かへすがへる心憂く侍り。 ころは神無月、中の十日のことにてなん。ことにめでたきとぞ承はる。さてもまた、一和、世をのがれて、鳥もかよはぬ所にいまそかりけんこと、貴く思え侍り。本尊よりほかには、また頼むべき人もなし。松風よりほかには、こととふ者侍らざりけり。聞くにあはれに思えて、貴くぞ侍る。 ===== 翻刻 =====   撰集抄第一 むかし興福寺の僧にて一和僧都と云人あり智 行ともにそなはりて僧都の位に登り給へり後に は世をのかれて外山と云山里に住渡り給へり けるとかや其初遊心集を見侍りしに此僧都 の有様おろおろ注載て侍りしは彼興福寺維摩 会とて可謂方なく目出き法会侍る講師は 八宗明匠時名高を撰給ふ事にこそ読なる縁 起は菅丞相の御筆かけまくも賢き神の御こと のりに侍り持なる如意は聖宝僧正の道具とそ/k32l 勅使立なんとして殊やんことなき無上梵筵 に侍りしかあれは彼講師に応するを以て道たた なむ思出とし侍る也此一和僧都彼撰に入らん すらんと思ほとにはからすして性延といふ人に こされにけり何事も前世の宿業にこそ侍らめと 思止め給へともなを難忍侍りけれはなかく本寺をは なれて年薮修行の物ともなれかしと思ひて弟子 ともにもかくともしらせす本尊持経はかり竹の をいに入おさめて窃に三面の僧坊を立出て四所 の社檀にまうててなくなく今は限の法施奉り/k33r 給ふ心の中のいふせさはさなからおもひやられて侍り さすかにすみなれし寺もはなれかたくなれぬる友も すて難くや侍りけん指ていつくとしも行さきも さため給はさりけれともあつまちの方に趣きて尾 張のなるみかたにも着侍りぬしほひのひまをうかか ひて熱田の社に参られ侍りしは法施なと奉て 侍りけるにけしかるねきの出来りて一和をさして 云様汝うらみをふくめる事ありて本寺を離れり 迷へる人習うらみはたえぬ物なれは理にし侍れ共 心にかなはぬは世也陸奥国ゑひすか城へとおもふとも/k33l そこにもつらき人あらは又何の所とてか越行かん たた急本寺に帰て日比の望みをとくへしと侍る 時一和頭を垂思もよらぬ仰かなかかる乞食修行者 に何の恨か侍るへきと云に禰宜大にあさけり侍りて つつめともかくれぬものはなつむしの 身よりあまれるおもひなりけり と云哥の古を出して汝をろかなりさらは示て 聞せん汝維摩の講師を性延に越されて恨を 含にあらすや彼講師と云はよな帝尺の札に 記する也其次而則性延一和義操観理とある也/k34r 帝尺の札に記しぬるも是昔のしるへ也とくとく 憂念を止て本寺に可帰なり汝は更情無我を 捨といへとも我は汝を捨すして是まてしたひ示なり 春日の山老骨已につかれぬとてあからせ給ひに けれは一和かたしけなく貴く思て急帰上にけり 結かさぬる草枕泪の露のしとろにて急雨はるる 秋の野原の心地していくしほかまの染衣すすかれ 果て侍りけんけにとおほえて哀に侍り此事 書をく跡を見侍りしにそそろに涙落て侍き恨 みもかはり侍らぬに年を経てすみ馴にし所のおもひ/k34l すて難きにやすくも立別給へりけん心の中は さそ中々すみておはしけんな又汝は更情無我 を捨といへとも我は汝をすてすして是まて示す也 と御詫宣の侍りける承るにそそろに袂のしほり あへす侍る凡仏の世に顕させ給也仏法の世に顕れ させ給へりしには地獄の衆生まて参集て皆得益 を得侍りき我等むなしく御出世にもれぬ三会の 暁もはるかなる暗中に生をうけてたた明暮は 夢にのみはかされておなし瀬に立水の泡の流れ 消る心地して侍り我等を哀と見そなはして尺迦大/k35r 師のなき跡の衆生をすくひ給はんとて神と現給て いまも彼一和を利し給にこそここ住よしに非すとて 藻しほの煙の風になひくを守り浜千鳥の跡を尋 てあらぬすみかまの浦に尋至てすみかとせんにそこ にもつらき人有は又いつちとてか行へきな浄土に あらすは心叶所侍らし聖衆にましはらすは思ふに 随ふ友もなからんする物にこそと今の御詫宣身 に入て覚侍り口惜かな心とくるしき所に留り居 てそそろに胸をこかす事を抑此維摩会を帝尺 の札に記給ふらん難有覚て侍り世にせつても/k35l 彼講師にのそまさりけれはこそかくつたなくさき もあさき身と生れけめと返々心憂侍り此は 神無月中の十日の事にてなん殊に目出とそ承る さても又一和世を遁て鳥もかよはぬ所にいまそ かりけん事貴覚侍り本尊より外には又頼むへ き人もなし松風より外には事とふ物侍らさりけり聞 に哀に覚えて貴くそ侍る/k36r