撰集抄 ====== 巻1第4話(4) 七条皇后(長歌) ====== ===== 校訂本文 ===== 七条の皇后((藤原温子))、失せさせ給ひしかば、人々、ちりぢりになり行きて、宮のうち荒れはてて、ものさびしきありさまにて侍りけるに、さまをかへ、袂を染め給ふ方も、いまそかりけるなんめり。その中に、かの御所にさぶらひける、伊勢といふ女房のもとへ、人のとぶらひ聞こえ侍りける返事に、 >おきつ波 荒れのみまさる 宮のうちは 年経て住みし 伊勢の海士(あま)も 船流したる 心地して 寄らむ方なく かなしきに 涙の色の くれなゐは われらが中の しぐれにて 秋のもみぢと 人々は をのがちりぢり 別れなば 頼む影なく なり果てて とまるものとは 花すすき 君なき庭に むれ立ちて 空をまねかば 初雁の 鳴き渡りつつ よそにこそ見め と読み侍りけるを、宮のうちの人々、これを聞き給ひて、ことにあはれみ思はれけるにや。さらなり、さこそ悲しくもおはしあひ給けめな。たのみをかけ奉る皇后に、おくれ奉りて、日数もいまだ重ねず、袂(たもと)もさりと濡るるころ、あはれにはかなきことを聞き給ひけん、心のうちどもは、さこそ侍りけん。 されども、浮世を思ひ取るたぐひ、さすがまれなるに、国行の三位((藤原国行か。))と聞きし人、この歌を見給ひてのち、いよいよ歎きの重なり給ひて、手づから髻(もとどり)押し切り、たちまちに妻子をふり捨てつつ、いづちともなく、まぎれ失せ給ひけり。後には、つひにまたも見え給はでやみぬと、伝へ承はるぞ。 げにありがたく思え侍り。さして、日ごろ心をおこし給へる人とも見え給はざりけるに、去りがたき妻、いとほしき子をふり捨てて、行方知らずなり給けん、心の貴さは、筆にも述べがたく、言葉にも尽しがたし。まことに、「妻子珍宝王位臨命終時不随身」とて、三途のちまた、中有の旅には、妻子・珍宝、身にそはざるのみならず、かへりて悪趣にただよふものなり。 されば、この幻(まぼろし)の((底本「まほろの」。諸本により補入。))、しばしのほどの愛着、長く菩提の戸さしたらん、心憂きにあらずや。「唯戒及施不放逸、今世後世為伴侶」とて冥途の悪しき道には、「戒施不放逸」のみこそ、身をば助くなれ。「しかじ、はや恩愛をふり捨て、戒施の功徳をたくはへん」と思ひ侍れど、年を経て、思ひなれにしことの忍びがたくて、ままと((底本「まこと」。諸本「まゝと」により訂正))過ぐすに侍り。 しかるに、この三位の、にはかに発心して、勤め給ひけん、うらやましきにはあらずや。「道心のさめ給はざりければこそ、またも見え給はざりけめ」と貴く思え侍り。 さても、往生の素懐をとげ給なば、最初引接の人には、伊勢のみにてこそ侍らめと、すずろにあはれに侍り。 ===== 翻刻 ===== 七条の皇后失させ給しかは人々散々に成行て宮のうち あれはてて物寂しき有様にて侍りけるに様を替 袂を染給ふ方もいまそかりけるなんめり其中に彼御 所に侍らひける伊勢と云女房の許へ人のとふらひ聞侍 りける返事に おきつ波 荒のみ増る 宮のうちは 年へて住し/k14r いせのあまも 船なかしたる 心ちして よらむかたなく かなしきに なみたの色の くれなゐは われらか中の しくれにて 秋の栬と 人々は をのかちりちり わかれなは 頼むかけなく なり果て とまる物とは 花すすき 君なき庭に むれ立て 空をまねかは はつかりの なき渡りつつ よ所にこそ見め と読侍りけるを宮のうちの人々是を聞給て殊に 哀み思はれけるにやさらなりさこそかなしくもをはし あひ給けめな憑をかけ奉る皇后におくれ奉て日数 もいまた不重袂もさりと沾る比あはれにはかなき事/k14l をきき給けん心のうち共はさこそ侍けんされとも浮世を 思ひ取たくひさすか希なるに国行の三位と聞し 人此哥をみ給て後いよいよ歎の重なり給て手自本 鳥押切忽に妻子をふりすてつついつちともなくま きれ失給けり後にはつゐに亦もみえ給はてやみぬ と伝承そけに有難覚侍り指て日比心を発給へ る人とも見えたまはさりけるにさりかたき妻いとをしき 子をふり捨て行方不知成給けん心の貴さは筆にも 難述詞にも尽しかたし実に妻子珍宝王位臨 命終時不随身とて三途のちまた中有の旅には/k15r 妻子珍宝身にそはさるのみならす帰て悪趣に たたよふ物也されは此のまほろのしはしのほとの愛着 なかく菩提の戸さしたらん心憂に非すや唯戒及施 不放逸今世後世為伴侶とて冥途悪みちには 戒施不放逸のみこそ身をはたすくなれしかし早恩愛 をふりすて戒施の功徳をたくわへんと思侍れと年 をへて思なれにし事の難忍てまことすくすに侍り然る に此三位の俄に発心して勤給けん浦山しきには 非すや道心のさめ給はさりけれはこそ亦も見え給は さりけめと貴く覚侍りさても往生の素懐を遂/k15l 給なは最初引接の人には伊勢のみにてこそ侍らめと すすろにあはれに侍り/k16r