無名抄 ====== 第64話 隆信定長一双事 ====== ===== 校訂本文 ===== ** 隆信定長一双事 ** 近ごろは、隆信・定長と番(つが)ひて、若くより人の口に同じやうにいはれ侍りき。 かの俊恵が家にて、百首を十首づつ十度に詠みて「十座の百首」と名付けたることのありけるには、挑みて各々(おのおの)心を尽したりける。げに、いづれも劣らざりけり。 また、俊成卿の十首歌詠ませ侍りける時も、ともによく詠みたりければ、かの卿は、「世に人の一つ番(つがひ)に申すよし聞けど、『何事かはあらん』と思ひて過ぎつるに、この十首の歌にこそ返抄もたびつべく思ゆれ」となん言はれける。 しかあるを、九条殿、右大臣と申すとき、人々に百首を召されし時に、隆信、作者に入りて、公事なるうちにも日数もなくて、物騒がしかりければ、いとよろしき歌もなかりけり。そのころ定長は出家の後にて、身の暇(いとま)もあり、今少しのどやかに案じて、無題の百首を磨きたてて取り出だしたりけるに、たとしへなく勝りたりければ、その時より「寂蓮左右なし」といふことになりにき。御前辺には、「いかなるをこの物の、同じ列(つら)の口とは番ひそめたるぞ」とまで仰せられけるとぞ。 後に隆信、からきことにして、「はやく死なましかば、さるほどの歌仙にてやみなまし。よしなき命の長くて、かく道の恥をあらはすこと」とぞ言はれける。 ===== 翻刻 ===== 隆信定長一双事 ちかころは隆信定長とつかひてわかくより人の 口にをなしやうにいはれ侍きかの俊恵か家にて 百首を十首つつ十度によみて十座の百首 となつけたることのありけるにはいとみてをのをの 心をつくしたりけるけにいつれもおとらさりけり 又俊成卿の十首哥よませ侍ける時もともによく よみたりけれはかの卿は世に人のひとつつかひに申 よしきけとなにことかはあらんと思てすきつるにこの/e52r 十首の哥にこそ返抄も給つへくおほゆれとなん いはれけるしかあるを九条殿右大臣と申とき人々 に百首をめされし時に隆信作者に入て公事 なるうちにも日かすもなくて物さはかしかりけれは いとよろしき哥もなかりけりその比定長は出家の 後にて身のいとまもあり今すこしのとやかに 案して無題の百首をみかきたててとりいたし たりけるにたとしへなくまさりたりけれはその 時より寂蓮左右なしといふことになりにき御前 辺にはいかなるおこの物のをなしつらの口とは つかひそめたるそとまておほせられけるとそ後に/e52l 隆信からきことにしてはやくしなましかはさるほ との哥仙にてやみなましよしなき命のなかく てかくみちのはちをあらはすこととそいはれける/e53r