蒙求和歌 ====== 第14第49話(249) 王陽囊衣 馬援薏苡 ====== ===== 校訂本文 ===== ** 王陽囊衣 馬援薏苡 ** 後漢の王吉、字を子陽といふ。瑯琊の人なり。子孫に及びて、奉養甚だ奢れり。しかはあれども、移り去る時は、衣入れたる嚢(ふくろ)一つ、持ちたりける。「奢侈の名を消さむ」とて、嚢に衣ばかりを入れて、他国へ去りけるなり。 時に馬援、はじめ交趾にある時、常に薏苡(つしだま)((「薏苡」ヨクイ、ジュズダマに同じ。))を沐(よく)して、身を軽(かろ)くしけり。南方に薏苡の実大きなるあり。行きて、その実を送りて、一車に積みて帰りければ、時の人、南土の珍怪と思へりけり。貴賤、皆これを望む。 馬援、時に寵有り。故に以聞ゆるものなし。卒するに及びて後、上書して、これを譖しむる((「譖しむる」は底本「讃シムル」。典拠「後人譛之」により訂正。))者、「以為(おもへらく)、前に載せて還へる所、皆、明珠・文犀」と言へり。 また、呉祐が父、恢((底本「恠」。))、南海の太守たる時、青竹を取りて、書を写さむとしけるに、呉祐、いさめて((底本「イイサメテ」。衍字とみて一字削除。))いはく、「昔、馬援は薏苡(つしだま)によりて、謗(そし)りを負ひ、王陽は衣(ころも)の嚢(ふくろ)をもて、名もとむ。嫌疑の間、まことに先賢の慎む所なりと言ひけり」と言ひけり。 >嚢衣は一嚢之衣也。有底曰嚢、无底日嚢といへり。   来(き)しかたを思ひ返して旅衣(たひごろも)いかなる里に移り行くらむ ===== 翻刻 ===== 王陽囊衣 馬援(エム)薏苡 後漢ノ王吉字ヲ子(シ)陽トイフ瑯琊ノ人ナリ及テ子孫ニ奉 養甚奢レリシカハアレトモウツリサルトキハコロモイレタルフクロ ヒトツモチタリケル奢侈ノ名ヲケサムトテフクロニコロモハカリ ヲイレテ他国ヘサリケルナリ時ニ馬援ハシメ交趾ニアルトキ/d2-55r ツネニツシタマヲ沐(ヨク)シテミヲカロクシケリ南方ニツシタマノミヲ ホキナルアリユキテソノミヲヲクリテ一車ニツミテカヘリケレハ トキノ人南土ノ珍恠トヲモヘリケリ貴賤皆望ソム之馬援 時ニ有リ寵故莫以聞及テ率スルニ後上書シテ讃シムル之者以為前ニ 所コロ載セテ還ヘル皆明珠文犀トイヘリ又呉(コ)祐(ユ)カ父恠南 海ノ大守タルトキ青竹ヲトリテ書ヲウツサムトシケルニ呉祐イ イサメテ云ク昔シ馬援ハツシタマニヨリテソシリヲオヒ王陽ハコロ モノフクロヲモテ名モトム嫌疑ノアヒタマコトニ先賢ノツツシム トコロナリト云ケリトイヒケリ 嚢衣ハ一嚢之衣也有底曰嚢无底日嚢トイヘリ キシカタヲ思ヒカヘシテタヒコロモ イカナルサトニウツリユクラム/d2-55l