蒙求和歌 ====== 第14第4話(204) 丙吉牛喘 ====== ===== 校訂本文 ===== ** 丙吉牛喘 ** 丙吉は魯人なり。はじめ、獄吏として、功を積みて、廷尉に至る。丞相にのぼる。大体をつとめ、礼譲を好む。 丙吉、春の日、道を行くに、清道の郡人の戦ひて、死にて、道に横ざまに倒(たは)れ臥せるあり。丙吉、これをば問はずして、人の引きて過ぐる牛を見るに、牛、喘(あへ)ぎて、舌を垂れたる((「垂れたる」は底本「〓(口偏+亠+ム)」に(タレタル)と読み仮名。))、これを驚きて、「幾里(いくさと)を行けるぞ」と問ふに、行人、丙吉をそしりていはく、「同じ道のほとりに、戦ひ死ぬるあり、牛の喘ぐあり。なんぢ、人の死ぬるをば見もとがめずして、牛の喘ぐを驚けり。人と牛と同じからず」と言へり。 丙吉、答へていはく、「人の殺さるることは、長安令・京兆尹の行ふ所なり。年の終りより、殿最を仰せて、小事を視ず。これによりて、春は小陽((底本「小楊」。書陵部本、及び典拠により訂正。))なり。いまだ暑がるべきことにあらず。道をゆく牛の暑きに耐へざるゆゑに喘ぐことは、すなはち時節の違(たが)へるなり。気の乱るることは、世のため、君のため、おほきなる憂へなり。かるがゆゑに、牛の喘ぐを問ふなり」と答へけり。行人、ことわりを讃めて、頭(かうべ)を垂れて去りぬ。 昔、陳留に、富老翁の年八十なるあり。女子一人ありて、男子なし。妻、死にて後、田客の女(むすめ)の、年十八なるを妻(め)にして、一夜逢ひ見て後(のち)に、翁、死ににけり。女、一人の男子(をのこご)を生みてけり。 前(さき)の妻の腹の女子(をんなご)、「親の財(たから)を、われ一人取らむ」と思ひて、「後の妻の生める子は、異人(ことびと)の子なり。八十の後(のち)、胤子あるべからず。その上、父に似ず」とうれへけり。州郡、定め得ず((「得ず」は底本「エム」。書陵部本により訂正。))。 丙吉、ことはりていはく、「われ聞く、老翁の子は寒に耐へず、また影なし」。時は八月なり。同じ年の小児を裸になして並ぶるに、傍らの小児は泣かず。翁の子は寒を憂へて泣きけり。また、同じく日中に並べてみるに、傍らの小児は影あり。翁の子は影なかりけり。すなはち、男子は財(たから)を((底本「男子ハタカラハヲ」。ハを衍字とみて削除。))与へて、女子に偽れる罪に行はれにけり。 三公は天下を正し、陰陽を調へ、風雨を節すと云へり。   うしと思ふ夏の心の深ければかすめる空の((底本「カスヌルソラノ」。ヌをメの誤写とみて訂正。))なほしたのまし ===== 翻刻 ===== 丙吉牛耑   丙吉ハ魯人也ハシメ獄吏トシテ功ヲツミテ廷尉ニイタル丞相ニノホル大体ヲ ツトメ礼譲ヲコノム丙吉春ノ日ミチヲユクニ清道ノ郡人ノタタカ ヒテシニテミチニヨコサマニタハレフセルアリ丙吉コレヲハトハスシテ 人ノヒキテスクル牛ヲ見ルニ牛シアヘキテ〓(タレタル)舌ヲコレヲヲトロキテ イクサトヲユケルソトトフニ行人丙吉ヲソシリテ云ヲナシミチノホト リニタタカヒシヌルアリウシノアヘクアリナムチ人ノシヌルヲハミモ トカメスシテウシノアヘクヲヲトロケリ人ト牛トヲナシカラストイヘリ 丙吉コタヘテ云ク人ノコロサルルコトハ長安令京(ケイ)兆(テウ)尹ノヲコナフトコ ロナリトシノヲハリヨリ殿最ヲヲホセテ不視小事ヲコレニヨリ/d2-40r テ春小楊ナリイマタアツカルヘキコトニアラスミチヲユク牛ノ暑(アツキニ) タヘサルユヘニアヘクコトハスナハチ時節ノタカヘルナリキノミタルルコトハ ヨノタメ君ノタメヲホキナルウレヘナリカルカユヘニ牛ノアヘクヲトフ ナリトコタヘケリ行人コトハリヲホメテカフヘヲタレテサリヌ昔シ 陳留ニ冨老翁ノトシ八十ナルアリ女子ヒトリアリテ男子 ナシ妻シニテ後田客ノムスメノトシ十八ナルヲメニシテ一夜 アイミテノチニヲキナシニニケリ女ヒトリノヲノココヲウミテケリ サキノメノハラノヲムナコヲヤノタカラヲワレ一人トラムト思テ後ノメノムメル 子ハコト人ノ子ナリ八十ノノチ胤子アルヘカラスソノウヘチチニニスト ウレヘケリ州郡サタメエム丙吉コトハリテイハクワレキク老翁ノ子ハ 寒ニタヘス又カケナシトキハ八月ナリヲナシトシノ小児ヲハタカニ ナシテナラフルニカタハラノ小児ハナカスヲキナノ子ハ寒ヲウレヘテ ナキケリ又ヲナシク日中ニナラヘテミルニカタハラノ小児ハカケ アリヲキナノ子ハカケナカリケリスナハチ男子ハタカラハヲアタヘテ女子ニ/d2-40l イツハレルツミニヲコナハレニケリ三公ハ正天下調陰陽節ス 風雨ト云ヘリ ウシトヲモフナツノ心ノフカケレハ カスヌルソラノナヲシタノマシ/d2-41r