蒙求和歌 ====== 第7第8話(108) 呂望非熊 ====== ===== 校訂本文 ===== ** 呂望非熊 ** 周の文王、渭浜の狩りに出でむとして、史篇に占はせらるるに、「獲物、熊にあらず、羆(しぐま)にあらず。天の君に師を贈らむずるなり」と占へり。 文王、七日斎(いも)ひして、渭浜に出でて、一人の翁の釣りするに会ひ給ひぬ。呂望((呂尚・太公望))と聞こへし人なりけり。 文王、これを得て、喜びて、車の右に乗せて、帰りて、政(まつりごと)を任せ給ひければ、世すなほに、民やすくなりにけり。 呂望、昔、妻ありけり。呂望が貧しきに耐へずして、逃げ去りにけり。後に、呂望、斉の国の君として赴くに、道に泣き悲しむ女あり。怪しみ問ふに、「われは呂望が妻たりき。今、斉の君となれるを聞くに、心短かかりしことを悔ひ悲しぶなり」と言ふ。 呂望、「わがことなり」と答ふ。女、帰り住まむことを望む。呂望、水を女に汲ませて、土に入れて、「また元のやうに受けよ」と言ふ。水、返ることなし。時にいはく、「なんぢ、恩愛尽きにしことの水のごとし」と言ひて過ぎぬ。   かきくらし知らぬ翁にあひ見しも心のうらのかがみなりけり ===== 翻刻 ===== 呂望非熊 周ノ文王渭浜ノカリニイテムトシテ史篇ニウラナハセラルルニ エモノクマニアラスシクマニアラス天ノ君ニ師ヲヲクラムスルナ リトウラナヘリ文王七日イモヰシテ渭浜ニイテテヒトリノ ヲキナノツリスルニアヒタマヒヌ呂望トキコヘシ人也ケリ/d1-52l 文王コレヲエテヨロコヒテクルマノミキニノセテカヘリテマツリ コトヲマカセタマヒケレハヨスナヲニタミヤスクナリニケリ 呂望昔妻アリケリ呂望カマツシキニタエスシテニケ サリニケリ後ニ呂望斉ノ国ノキミトシテヲモムクニミチニ ナキカナシム女アリアヤシミトフニワレハ呂望カ妻タ リキイマ斉ノキミトナレルヲキクニ心ミシカカリシコトヲ クヒカナシフナリト云呂望ワカコトナリトコタフ女カヘリ スマムコトヲノゾム呂望ミツヲ女ニクマセテツチニイレテマ タモトノヤウニウケヨトイフ水カヘルコトナシトキニイハクナム チヲムアヒツキニシコトノミツノコトシト云テスキヌ カキクラシシラヌヲキナニアヒミシモ ココロノウラノカカミナリケリ/d1-53r