古本説話集 ====== 第69話 信濃国筑摩の湯に、観音、人と為りて沐せしめ給ふ事 ====== **信濃国沈摩陽観音為人令沐給事** **信濃国筑摩の湯に、観音、人と為りて沐せしめ給ふ事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、信濃の国に、筑摩の湯といふ所に、よろづの人の薬湯(くすりゆ)あり。 そのわたりなる人、夢に見るやう、「明日の午の時に、観音湯浴み給ふべし。かならず、人、結縁(けちえん)し奉るべし」と言ふ。「いかやうにてか、おはしまさんずる」と言ふ。答(いら)ふるやう、「年三十ばかりの男(をのこ)の髭黒きが、綾藺笠(あやいがさ)着たるが、節黒なる胡録(やなぐひ)、革巻きたる弓持ちて、紺の襖(あを)着たるが、夏毛の行縢(むかばき)、白足袋履きて、葦毛の馬のに乗りてなん来べき((底本「くつき」))。それを観音と知り奉るべし」と言ふあひだに、夢覚めぬ。 驚きて、人々に告げ回し語る。人々、聞きつきて、その湯に集まること限りなし。湯を替へ、めぐりを掃除、注連(しめ)を引き、花・香を奉りて、ゐ並みて待ち奉る。 やうやう、未になるほどに、ただ、この夢に言ひつるに、つゆ違はず見ゆる男来ぬ。顔より始めて、夢に言ひつるに違はず。よろづの人、にはかに立ちて額(ぬか)をつく。この男、大きに驚きて、心も得ざりければ、よろづの人に問へども、ただ((底本「たか」))拝みに拝みて、「そのこと」と言ふ人なし。 まめなる僧の、手をすりて、額(ひたひ)に当てて、拝みゐたるがもとに寄りて、「こはいかなることぞ。己を見て、よく拝み給ふは」と、横訛りたる声して言ふ。この僧、人の夢に見えけるやうを語る。この男言ふやう、「己は先(さい)つころ、狩りをして、馬より落ちて、右の腕(かひな)をうち折りたれば、『それ茹でむ』とて、詣で来たるなり」と言ひて、と行きかく行きすれば、人々、しりに立ちて拝みののしる。 男しわびて、「我が身は、さは、観音にこそありけれ。ことは、法師になりなん」と思ひて、弓・胡録・太刀・刀を折りて法師になりぬ。かくなるを見て、よろづの人、泣きあはれがる。 不意に見知りたる人出で来て言ふやう、「あはれ、彼は上野(かむづけ)にいまする、わとうぬしにこそいましけれ」と言ふを聞きて、これが名をば「わとう観音」とぞ言ひける。 法師になりて後、横川に上りて、かてう僧都の弟子になりて、横川に住む。その後は土佐の国に往にけり。 ===== 翻刻 ===== いまはむかししなのの国につくまのゆといふと ころによろつの人のくすりゆありそのわた りなる人ゆめにみるやうあすのむまの時に/b262 e134 観音ゆあみ給へしかならす人けちえんし たてまつるへしといふいかやうにてかおはしまさ んするといふいらふるやうとし三十はかりのを のこのひけくろきかあやいかさきたるかふしくろ なるやなくひかはまきたるゆみもちてこんのあ をきたるかなつけのむかはきしろたひはき てあしけのむまのにのりてなんくつきそれを くわんをんとしりたてまつるへしといふあひ たにゆめさめぬおとろきて人々につけまはしかたるひと ひとききつきてそのゆにあつまることかきりなし/b263 e134 ゆをかへめくりをさうちしめをひき花かうを たてまつりてゐなみてまちたてまつるやうやう ひつしになるほとにたたこのゆめにいひ つるにつゆたかはすみゆるをとこきぬかほよりは しめてゆめにいひつるにたかはすよろつ の人にはかにたちてぬかをつくこのおとこお ほきにおとろきてこころもえさりけれはよろ つの人にとへともたかをかみにをかみてその ことといふ人なしまめなる僧のてをすり てひたひにあててをかみゐたるかもとによりて/b264 e135 こはいかなることそおのれをみてよくをかみ給はと よこなまりたるこゑしていふこの僧人のゆ めにみえけるやうをかたるこのおとこいふやうをのれ はさいつころかりをしてむまよりおちてみき のかひなをうちをりたれはそれゆてむとてまう てきたる也といひてといきかくいきすれは人々 しりにたちてをかみののしるおとこしわひて わか身はさは観音にこそありけれことは法師 になりなんと思ひてゆみやなくひたちかたなををり てほうしになりぬかくなるをみてよろつの人/b265 e135 なきあはれかるふいにみしりたる人いてきて いふやうあはれかれはかむつけにいまするわとうぬしに こそいましけれといふをききてこれかなをはわ とうくわんをんとそいひける法師になりて のちよかはにのほりてかてう僧都の弟子に なりてよかはにすむそののちはとさのくににい にけり/b266 e136