古本説話集 ====== 第56話 留志長者の事 ====== **留志長者事** **留志長者の事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、留志長者とて、世に楽しき長者ありけり。大方、倉もいくらともなく持ち、楽しなどは、この世ならずめぜたきが、心の口惜しくて妻(め)にも子にも、まして使ふ物などには、いかにも物食はせ、着することなし。 己れ、物の欲しければ、ただ人にも見せず、盗まれて食ふほどに、物の飽かず多く欲しかりければ、妻に言ふ。「果物、御物(をもの)、酒、合はせどもなど、おほらかにしてくれよ。我に憑きたる物惜しまする慳貪の神祭らん」と言へば、「物惜しむ心失なはん」と思ひてし立つ。まことに人も見候はざらん所に行きて、よく食はん」と思ひて、虚言(そらごと)をするなりけり。 さて、取り集めて、行器(ほかゐ)に入れ、瓶子に酒入れなどして、担ひて出でぬ。「この木のもとに烏あり、あしこに雀めあり。食はれじ」と選りて、人離れたる山中の木の下に鳥獣もなく、食(くら)ふつべき物もなきに、食ひ居たる、楽しく心地よくて、ずんずる事、「今日曠野中 飲酒大安楽 猶過毘沙門 亦勝天帝釈」。この心は、「今日、人無き所に一人居て、よき物を多く食ふこそ、毘沙門(びさもむ)にも、天帝釈(てんたいしやく)にも勝りたれ」と申すを、帝釈、きと御覧じてけり。 「にくし」とおぼし召しけるにや、留志長者が形に変ぜさせ給ひて、「我が、山にて物惜しむ神を祭りたる。げにその神離れて、物の惜しからねばするぞ」とて、倉どもを、こそと開けさせ給ひて、妻、子ども、親、従者(ずさ)ともを始めとして、知る知らぬなく宝・物どもをとり出だして、配らせ給ふ時に、喜び合ひて給はるほどにぞ、まことの長者(ちやうざ)は帰りたる。 倉もみな開けて、かく人の取り合ひたるに、あさましく悲しく、我とただ同じ形にせさせ給ふに、「これはあらず。我ぞそれ」と言へど、聞き入るる人もなし。 御門に愁へ申せば、「母に問へ」と仰せらる。母に問へば、「物人に賜ぶこそは、子にて候ふらめ」と申せば、するかたなし。「腰のもとに黒子(はわくそ)と物の跡こそ候ひし。それを御覧ぜよ」と申たれば、開けて見るに、帝釈、落させ給はんやは、二人ながら、物の跡もあれば、ずちなくて、仏の御もとに二人ながら参りたれば、帝釈、元の形になりて、御前((底本「御所」))におはしませば、論じ参らすべき方なし。「悲し」と思へれど、須陀洹果(すだをんくわ)とて、人の永く悪しき所を離るる、はじめたる果、証じつれば、物惜しむ心も失せぬ。 かやうに帝釈は、人、導かせ給ふことはかりなし。すずろに、「あれが物失なはん」とは、なじかおぼしめさん。慳貪(けんどむ)にて、地獄に落つべきを、「落さじ」とかまへさせ給へれば、めでたくなりぬる、めでたし。 ===== 翻刻 ===== いまはむかし留志長者とてよにたのしき 長者ありけりおほかたくらもいくらともなく もちたのしなとはこのよならすめてたきか心/b172 e89 のくちおしくてめにもこにもましてつかふ物 なとにはいかにも物くはせきすることなし をのれ物ゝほしけれはたた人にもみせすぬす まれてくふほとに物ゝあかすおほくほしか りけれはめにいふくた物をものさけあはせとも なとおほらかにしてくれよわれにつきたる 物をしますするけんとんのかみまつらんと いへは物おしむ心うしなはんと思ひてしたつ まことにひともみさふらはさらん所にいきてよ くくはんと思ひてそらことをするなりけり/b173 e89 さてとりあつめてほかゐにいれへいしにさけ いれなとしてにないていてぬこの木のもとに からすありあしこにすすめありくはれしと えりてひとはなれたるやまなかのきの したにとりけた物もなくくらふつへき物もな きにくひいたるたのしく心ちよくてすんす る事今日曠野中 飲酒大安楽 猶過毘沙門 亦勝天帝釈このこころはけふ人なきところ に一人ゐてよき物をおほくくふこそひさも むにもてんたいしやくにもまさりたれと/b174 e90 申をたいしやくきと御らんしてけりにく しとおほしめしけるにや留志長者かかたちに へんせさせ給てわかやまにて物をしむかみを まつりたるけにその神はなれて物ゝおし からねはするそとてくらともをこそとあけさ せ給てめこともをやすさともをはしめとして しるしらぬなくたから物ともをとりいたして くはらせ給時によろこひあひて給はるほとにそ まことのちやうさはかへりたるくらもみなあけ てかく人のとりあひたるにあさましくかなしく/b175 e90 我とたたおなしかたちにせさせ給にこれはあら す我そそれといへとききいるる人もなし御かと にうれへ申せはははにとへとおほせらるははに とへはもの人にたふこそはこにて候らめと申 せはするかたなしこしのもとにはわくそと物ゝ あとこそ候しそれを御らんせよと申たれ はあけてみるにたいしやくおとさせ給はんや はふたりなから物ゝあともあれはすちなく てほとけの御もとに二人なからまいりたれは たいしやくもとのかたちになりて御所にお/b176 e91 はしませはろんしまいらすへきかたなし かなしとおもへれとすたをんくわとてひと のなかくあしき所をはなるるはしめたる果 せうしつれは物をしむ心もうせぬかやうに たいしやくは人みちひかせ給ことはかりなし すすろにあれか物うしなはんとはなしか おほしめさんけんとむにてちこくにおつ へきをおとさしとかまへさせ給へれはめてたく なりぬるめてたし/b177 e91