古本説話集 ====== 第52話 極楽寺の僧、仁王経の験を施す事 ====== **極楽寺僧施仁王経験事 ** **極楽寺の僧、仁王経の験を施す事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、堀河の太政大臣((藤原基経))と申す人、世心地、大事にわづらひ給ひければ、御祈りども、さまざまにせらる。世にある僧ども、参らぬはなし。参りて御祈りどもす。殿中騒ぐこと限りなし。 極楽寺はこの殿の造り給へる所なり。その寺に住みける僧ども、「御祈りせよ」といふ仰せもなかりければ、御しんにも召さず。このときに僧どもの、「御寺にやすく住むことは、殿の御徳にてこそあれ。殿失せ給ひなば、世にあるべきやうもなく」思えければ、年ごろ持ち奉りたりける仁王経を具して、殿に参りて、人騒がしかりけれども、中門の北の廊の隅にかがまりゐて、つゆ目も見かくる人も無きに、二時(とき)ばかりありて、殿の仰せらるるやう、「極楽寺になにがし大徳(だいとこ)やある」と仰せられければ、「中門の脇の廊になん候ふ」と申しければ、「それ、こなたへ呼べ」と仰せらるるに、人々、「あやし」と思ひて、「そこばくの僧を召すことなし。参りてゐたるをよしなし」と見ゐたるほどに、かく仰せられて、召しあれば、心も得ねども、召すよしを言へば参る。 僧どもの、つき並びたる後ろの縁にかがまりゐたり。さて、「ある」と問ひ給ひければ、南の簀子(すのこ)に候ふよし申せば、「呼び入れよ」とて、御殿籠りたる所へ召し入る。むげに物も仰せられず、重くおはします御心ちに、この僧召すほどの御気色の、こよなくよろしく思えさせ給ふめり。 入れて、御枕の几帳のほどに候ふに、仰せらるるやう、「眠(ねぶ)りたりつる夢に、我が辺りに恐しげなる鬼どもの、我身をとりどりに打ち凌じつるほどに、びんづら結いたる童の、楚(すはへ)持ちたるが、中門の方より入り来て、楚してこの鬼どもを片端より打ち払ひつれば、『何物のかくはするぞ』と問ひつれば、『極楽寺に候ふ某(それがし)が、わづらはせ給こと、いみじく嘆き申して、年ごろ読み奉る仁王経を、『必ず必ず験あらせ給へ』と念じて、中門の脇の内に、つとめてより候ひて、仁王経読み奉るあひだ、一文字も異(こと)事を思はず、ひとへに念じ読み奉る験の現はれて、その護法のつけんに候はん。『悪しき者ども、払はん』と、般若の仰せ給ひつれば、追い給ひ候ふなり』と答ふるを、貴しと思ひ、おどろきたるに、掻い拭(のご)ふやうに、さはやみたれば、『まことに参りて、経読むか』と問はせ給ひつるに、『今朝よりあり』と聞けば、喜び言はんとて」。手をすりて拝ませ給ふ。 御衣架に懸かりたる御衣(ぞ)を召して、かづけさせ給ひて、「すみやかに寺に帰りて御祈りよくよくせよ」と仰せらるれば、喜びてまかり出づるほどに、僧俗の見合ひたるほど、いみじくやむごとなし。中門の脇に終日(ひめもす)に眠(ねぶ)りいたりつるおぼえなさに思ひくらぶるに、いみじく貴し。 寺に帰りたるに、僧、思ひたる気色、ことのほかなり。 人の祈りは、貴きも汚きも、ただよく心に入りたるが験あるなり。されば、「母の尼して祈りはすべし」と昔より言ひ置きたることなり。 ===== 翻刻 ===== いまはむかしほりかはの太政大臣と申ひとよここ/b146 e75 ち大事にわつらひ給けれは御いのりともさま さまにせらるよにある僧ともまいらぬはなし まいりて御いのりともす殿中さはくことかき りなしこくらくしはこのとののつくり給へる ところ也そのてらにすみける僧とも御いのり せよといふ仰もなかりけれは御しんにもめさす このときに僧ともの御寺にやすくすむことは 殿ゝ御とくにてこそあれとのうせ給なはよにあ るへきやうもなくおほえけれはとしころもち たてまつりたりける仁王経をくして殿に/b147 e75 まいりて人さはかしかりけれともちうもん のきたのらうのすみにかかまりゐてつゆめも 見かくるひともなきに二ときはかりありて とののおほせらるるやうこくらくしになにかし たいとこやあるとおほせられけれはちうもんの わきのらうになん候と申けれはそれこなたへよへ とおほせらるるにひとひとあやしと思ひてそこ はくの僧をめすことなしまいりてゐたるを よしなしとみゐたるほとにかくおほせられて めしあれはこころもえねともめすよしをいへは/b148 e76 まいる僧とものつきならひたるうしろのえん にかかまりゐたりさてあるととひ給けれは みなみのすのこに候よし申せはよひいれよと て御とのこもりたるところへめしいるむけに 物もおほせられすをもくおはします御心ちに この僧めすほとの御けしきのこよなくよろ しくおほえさせ給めりいれて御まくらのき ちやうのほとに候におほせらるるやうねふりたり つるゆめにわかあたりにおそろしけなるお にともの我身をとりとりにうちれうしつる程に/b149 e76 ひんつらゆいたるわらはのすわへもちたるか ちうもんのかたよりいりきてすわへして このおにともをかたはしよりうちはらひつ れはなに物ゝかくはするそととひつれはこくらく しに候それかしかわつらはせ給こといみしく なけき申てとしころよみたてまつる仁王 経をかならすかならすけんあらせ給へとねんして ちうもんのわきのうちにつとめてより候て 仁王経よみたてまつるあひたひともしもこ と事をおもはすひとへにねんしよみたて/b150 e77 まつるけんのあらはれてそのこをうのつけんに 候はんあしき者ともはらはんとはんにやの仰 給つれはをい給候也とこたふるをたうとしと 思ひおとろきたるにかいのこふやうにさはやみた れはまことにまいりて経よむかととはせ給つるに けさよりありときけはよろこひいはんとて てをすりてをかませ給御いかにかかりたる御そ をめしてかつけさせ給てすみやかにてらに かへりて御いのりよくよくせよとおほせらるれはよ ろこひてまかりいつるほとに僧そくのみあひ/b151 e77 たるほといみしくやむことなしちうもんの わきにひめもすにねふりいたりつるおほえ なさに思ひくらふるにいみしくたうとし寺 にかへりたるに僧思ひたるけしきことのほか 也ひとのいのりはたうときもきたなきもた たよくこころにいりたるかけんあるなりされ はははのあましていのりはすへしとむかし よりいひをきたること也/b152 e78