古本説話集 ====== 第19話 平中の事 ====== **平中事** **平中の事** ===== 校訂本文 ===== 今は昔、平中((平貞文))といふ色好みの、いみじく思ふ女の、若く美しかりけるを、妻(め)のもとに率(い)て来て置きたり。妻にくげなることどもを言ひつづくるに、追ひ出だしけり。この妻に従ひて、「いみじうらうたし」とは思ひながら、え留めず。いちはやく言ひければ、近くだにもえ寄らで、四尺の屏風に押しかかりて立てり。 「世の中の思ひのほかにてあること。いかにしてものし給ふとも、忘れて消息もし給へ。をのれもさなむ思ふに」など、言ひけり。この女は包みなどに物入れしたためて車とりにやりて、待つほどなり。「いとあはれ」と思けり。 さて、出でにけり。とばかりありて、おこせたる、   忘らるな忘れやしぬる春霞今朝立ちながら契りつること この平中、さしも心に入らぬ女のもとにても、泣かれぬ音(ね)を、そら泣きをし、涙に濡らさむ料に、硯瓶に水をいれて、緒をつけて、肘に懸けて、し歩きつ顔・袖を濡らしけり。 出居の方を、妻覗きて見れば、間木に物をさし置きけるを、出でて後取り下して見れば、硯瓶なり。また、畳紙に丁子入りたり。瓶の水をいうてて、墨を濃く磨りて入れつ。鼠の物を取り集めて丁子に入れ替えつ。さて、もとの様に置きつ。 例の事なれば、夕さりは出でぬ。暁に帰りて、心地悪しげにて、唾(つばき)を吐き、臥したり。「畳紙の物のけなめり」と、妻は聞き臥したり。 夜明けて見れば、袖に墨ゆゆしげに付きたり。鏡を見れば、顔も真黒に目のみきら((底本「 ろ」の横に「ら」を傍書))めきて、我ながらいと恐しげなり。硯瓶を見れば、墨を磨りて入れたり。畳紙に鼠の物入りたり。いといとあさましく、心憂くて、その後そら泣きの涙、丁子くぐむこと、とどめてけるとぞ。 ===== 翻刻 ===== いまはむかし平中といふ色このみのいみし くおもふ女のわかくうつくしかりけるをめのも とにいてきておきたりめにくけなる事 ともをいひつつくるにおひいたしけりこのめに したかひていみしうらうたしとは思なから えととめすいちはやくいひけれはちかくたにもえ よらて四尺のひやう風にをしかかりてたて り世の中の思のほかにてある事いかにして ものしたまふともわすれて消息もしたまへ をのれもさなむおもふになといひけりこの女は/b60 e30 つつみなとにものいれしたためてくるまと りにやりてまつほと也いとあはれと思けりさて いてにけりとはかりありてをこせたる わすらるなわすれやしぬるはるかすみ けさたちなから契つる事 この平中さしもこころにいらぬ女のもとに てもなかれぬねをそらなきをしなみたにぬら さむれうにすすりかめに水をいれてををつけ てひちにかけてしありきつかを袖をぬらしけり てゐの方をめのそきてみれはまきにものを/b61 e30 さしをきけるをいててのちとりをろして みれはすすりかめ也またたたうかみにちやうし いりたりかめの水をいうててすみをこくすりて いれつねすみの物をとりあつめてちやうしに いれかへつさてもとの様にをきつれいの事 なれは夕さりはいてぬあかつきにかへりて心地 あしけにてつはきをはきふしたりたたうかみの物ゝけなめりとめはききふしたり夜あ けてみれは袖にすみゆゆしけにつきたり かかみをみれはかほもまくろにめのみきらめき て我なからいとをそろしけなりすすり/b62 e31 かめをみれはすみをすりていれたりたたう 紙にねすみの物いりたりいといとあさましく 心うくてそののちそらなきの涙ちやうしくくむ事 ととめてけるとそ/b63 e31