[[index.html|唐鏡]] 第六 魏蜀呉より余晋恭帝にいたる ====== 11 西晋 孝懐帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami6-10|<>]] 次をば孝懐帝((懐帝・司馬熾))と申しき。諱(いみな)は熾、字は豊度。武帝第二十五の御子なり。恵帝((司馬衷))失せ給ひて、位に即き給ふ。太傅東海王越((司馬越))、政を輔く。 永嘉三年春((底本「奉」。))三月、大いに旱(ひでり)て、江漢河洛みな水なくて、歩(かち)より渡る。 永嘉五年六月に、前趙の劉聡ら、洛陽を落しいる。帝、華林苑の門を開きて、長安に幸し給はんとするに、敵に捕られ給ひぬ。悉(ふつく)に宮人珍宝を取り、王公ら害すること三万余人、宮廟((底本表記「宮庿」))を焼き払ひつ。后妃たちを恥ぢしめ、帝をば会稽公とす。 この時、長安城の戸、百に満たず、墻宇(しやうう)頺毀れて、蒿棘(かうきよく)成し、林朝庭には車馬章服なし。公私の車わづかに四乗ぞ残れる。劉聡((底本「劉聴」))、帝に呼び入れ奉りて、物語して曰く、「卿として昔豫章給ひたりし時、朕を引きて皇堂に射(ゆみい)しに、朕十二籌を得たりき。卿王武子と九籌を得たりき。すなはち((「すなはち」は底本「卿チ」。「即ち」の誤りとみて訂正。))朕に枯弓眼硯を贈り、卿今かかるべし。思ひきやいなや」。帝の曰く、「臣あへて忘れず。但し龍顔を知らざりしことをうらむ」。劉聡また曰く、「卿家の骨肉、みな失することいかん」。帝の曰く、「これは天のするなり。臣が家尽きずば、陛下何によりてか得ん」と、ことはしたいふ。劉聡、帝に、「妻とすべし」とて、劉貴人を賜へり。 永嘉七年春正月朔、朝大いなる宴会。劉聡、帝に青衣を着せ奉りて、群臣に酒を行はしむ。侍中庾珉(いうみん)、いづれの人よりも悲啼す。劉聡これを憎みて殺しつ。すなはち帝にも鴆(ちん)を奉りぬ。御年三十、在位七年なり。 [[m_karakagami6-10|<>]] ===== 翻刻 ===== 次ヲハ孝懐帝ト申キ諱ハ熾字豊度武帝第廿五ノ御子也恵 帝失給テ位ニ即玉フ太傅東海王越政ヲ輔 永嘉三年奉三月大ニ旱テ江漢河洛皆水ナクテ歩ヨリ/s163l・m289 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/163?ln=ja ワタル 永嘉五年六月ニ前趙ノ劉聡等洛陽ヲヲトシイル帝華林 苑ノ門ヲ開テ長安ニ幸シ玉ワントスルニ敵ニトラレ給ヌ悉ニ宮人珍宝ヲトリ 王公等害スル事三万餘人宮庿ヲ焼払ツ后妃タチヲハチシメ 帝ヲハ会稽公トス此時長安城ノ戸百ニミタス墻宇頺毀レテ蒿棘(カウキヨク) 成シ林朝庭ニハ車馬章服ナシ公私ノ車僅ニ四乗ソノコレル劉 聴帝ニヨヒ入奉テ物語シテ曰卿トシテ昔豫章玉タリシ時朕ヲ引テ皇堂ニ 射(ユミイシニ)朕十二籌ヲエタリキ卿王武子ト九籌ヲエタリキ卿チ朕ニ枯弓 眼硯ヲ贈リ卿今カカルヘシ思キヤイナヤ帝ノ曰臣敢テ不忘但龍 顔ヲシラサリシ事ヲウラム劉聡又曰卿家ノ骨肉皆失スル事イカン/s164r・m290 帝ノ曰是ハ天ノスル也臣カ家ツキスハ陛下ナニニヨリテカ得ント コトハシタイフ劉聡帝ニ妻トスヘシトテ劉貴人ヲ賜ヘリ永嘉七 年春正月朔朝大ナル宴会劉聡帝ニ青衣ヲキセ奉テ群臣ニ酒ヲ 行シム侍中庾珉(イウミン)何ノ人ヨリモ悲啼劉聡コレヲニクミテコロシツ則帝ニモ 鴆ヲ奉リヌ御年三十在位七年也/s164l・m291 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/164?ln=ja