[[index.html|唐鏡]] 第五 後漢光武より献帝にいたる ====== 16 後漢 孝桓帝 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami5-15|<>]] 第十の主をば孝桓帝((桓帝・劉志))と申しき。諱(いみな)は志(し)。粛宗((章帝・劉炟))の曾孫なり。 質帝失せ給ひて、太后((梁妠))、このかみ((底本「アニノコト也」と傍注。))大将軍梁冀(りやうき)と謀(はかりごと)を禁中に定めて、南宮に迎へ奉りて、位に即き給ふ。御年十五。太后朝にのぞみ給ふ。 建和元年三月より、京師(けいし)及び国々に、地震たびたびして、山崩れ水おほきに出でて、旱蝗(かんくわう)あり。河洛に((「河洛に」は底本「洛」なし。底本の異本注記により補う。))洪水出でて、人の漂没(へうぼつ)する多し。諸陵園・宮殿・掖庭(えきてい)に火ありて、焼け死ぬる者数知らず。 延熹((底本表記「延喜」。))三年七月に、梁皇后失せ給ひて後、梁冀謀反のことあらはれて、印綬を召さるるに、梁冀自殺して、親しき輩(ともがら)みな誅(ちう)に伏しぬ。 四年に関内侯(くわんだいこう)・虎賁(こほん)などの官((「官」は底本「宮」に「官歟」と注記。))を売ること、しなじななり。 永康元年十二月に、帝、崩じ給ひぬ。御年三十六、在位二十一年なり。 [[m_karakagami5-15|<>]] ===== 翻刻 ===== 第十主をは孝桓(カウクワン)帝と申き諱は志(シ)粛宗の曾孫なり 質(シツ)帝うせ給て太后このかみ(アニノコト也)大将軍梁冀とはかりこ とを禁中にさためて南宮にむかへたてまつりて位 に即給御年十五太后朝にのそみ給ふ 建和元年三月より京師(ケイシ)をよひ国々に地震たひたひ して山くつれ水おほきにいてて旱蝗(カンクワウ)あり河(洛イ)に洪(コウ)水 いてて人の漂没(ヒヤウボツ)するおほし諸陵園(シヨリヨウエン)宮殿(キウテン)掖庭(エキテイ)に火 ありてやけしぬるものかすしらす 延喜三(二イ)年七月に梁皇后(リヤウクワウコウ)うせ給てのち梁冀謀反の ことあらはれて印綬をめさるるに梁冀自殺(シサツ)して/s142r・m254 したしきともからみな誅(チウ)に伏ぬ 四年に関内侯(クワンタイコウ)虎賁(コホン)なとの宮(官歟)を売ることしなしななり 永康元年十二月に帝崩給ぬ御年卅六在位廿一年なり/s142l・m255 https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100182414/142?ln=ja