[[index.html|唐鏡]] 第二 周の始めより秦にいたる ====== 13 周 霊王 ====== ===== 校訂本文 ===== [[m_karakagami2-12|<>]] 第二十四の主をば霊王と申しき。生まれて御ひげましましき。ありがたかりしことなり。 二十一年にぞ孔子は生まれ給ひし。これは儒童菩薩の権化なり。これも天地経には、「儒童在彼号曰孔丘。漸々教化令其孝順」と見えたり。孔子の貫首(くわんじゆ)の御弟子顔回は、光浄菩薩なり。仏遣三聖権化一方といへるは、老子・孔子・顔回の御ことなり。 この時、盗跖(たうせき)((底本「キシヤナル人也」と注。))とて、猛悪の者ありき。教化のために、孔子、その家へ行き給ひしかども、さらに聞入れず。追ひ返し奉りしを、「孔子倒(くじたふれ)」とは申すなり(([[text:k_konjaku:k_konjaku10-15|『今昔物語集』10-15]]・[[text:yomeiuji:uji197|『宇治拾遺物語』197]]参照。))。 孔子の御子、伯魚(はくぎよ)生まるる時、魯の昭公、鯉魚(りぎよ)を賜ひき。孔子、君の賜(たまもの)を喜びて、やがて鯉(り)と名づけて、字(あざな)をば伯魚と申しき。今の世まで産所へ鯉魚を送ること、このゆゑなるべし。 この王の太子は、王子晋((太子晋・王子喬))と申しき。緱嶺(こうれい)といふ山にて仙にのぼりて、御位には即き給はず。衆生教化のため日本国に跡を垂れ給ひて、熊野権現と申す説あり。もしまことならば、利益衆生の御心ざし籌量(ちうりやう)のおよぶべき((底本「処」と異本注記。))にもあらず。((底本「廿五景王廿六悼王」と異本注記。)) [[m_karakagami2-12|<>]] ===== 翻刻 ===== 第廿四の主をは霊王と申きむまれて御ひけましまし きありかたかりし事なり廿一年にそ孔子はむまれ 給しこれは儒童菩薩(シユドウホサツ)の権化也これも天地経には 儒童(シユドウ)在(ザイ)彼号(ヒカウ)曰(サツ)孔(ク)丘漸(セン)々教化(ケウカ)令(リヤウ)其(コ)孝順(ケウシユン)とみへたり孔子の 貫首(クワンシユ)の御弟子顔回は光浄菩薩也仏遣三聖権化 一方といへるは老子孔子顔回の御事なりこの時盗跖(トウセキ・キシヤナル人也)とて/s41l・m73 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/41 猛悪(マウアク)のもの有き教化のために孔子其家へ行たまひしかとも さらに聞いれすをひかへしたてまつりしを孔子倒(タフレ)とは申なり 孔子の御子伯魚(ハクギヨ)むまるる時魯(ロ)の昭公鯉魚をたまひき孔子 君の賜(タマモノ)をよろこひてやかて鯉(リ)と名けて字(アサナ)をは伯魚と 申きいまの世まて産所へ鯉魚を送ことこの故なるへし 此王の太子は王子晋(シン)と申き緱(コウ・護)嶺(レイ)といふ山にて仙に のほりて御位には即給はす衆生教化のため日本国に 跡をたれ給て熊野権現と申す説ありもしまことな らは利益衆生の御心さし籌量(チウリヤウ)のおよふへき(イ処)にもあらす/s42r・m74 イ廿五景王廿六悼王/s42l・m75 https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100182414/viewer/42