唐物語 ====== 第17話 漢の高祖と申す御門おはしけり呂后と聞こえ給ふ后・・・(商山四皓・戚夫人) ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、漢の高祖と申す御門おはしけり。呂后と聞こえ給ふ后、東宮恵太子(けいたいし)の母にて、誰よりも御心ざし重く見えさせ給ひけり。 異腹(ほかばら)の親王に、趙の隠王と申す人を、御心ざしのあまりにや、御門、東宮に立てんと思しける御気色を、呂后見給ひて、あさましう心憂きことに思して、陳平・張良と聞こゆる二人の臣下を召し寄せて、「かかるいみじきことなんある。いかにしてかこの恨みをやすむべき」とのたまひあはするを、「げに」とや思ひけん、「かなはざらんまでも、はからひ侍るべし」と答えて返りぬ。 また、この後二人の人も、世の中の乱れなんずることを歎きて、おのおの謀りごとをめぐらしけり。「商山といふ山に、世を遁れ、御門の召するにも参らで、籠り居たる賢人四人あり。それをこしらへ出だして、この恵太子に付け奉りたらば、さりとも恥づる心おはしなん物を」と思ひよりて、この山のなかに尋ね行きにけり。 四人の人、うち見つつ驚きていはく、「何事にいとかくあやしげなる住処(すみか)には渡り給へるにか」と聞こえさする((諸本「聞こえさするに」))。「世の中乱れんとつかまつれば、我らが身までも歎き深くて、この山に隠れ居むと思ふ心侍り。しかれども、世の中の亡び治まらざらむことは、ただその御心なり」と言へるに、この人うち笑ひて、「君も、我に所置き恥ぢ給はんこと、いとありがたかるべけれど、むなしう返し奉らんもむげに情けなき様なれば、後のことをかへりみず、今日ばかりは御送りに参るべし」と言へりければ、限りなく嬉しく思えて、四人の人を具しつつ、東宮の御もとへ参りぬ。 たちまちに、学士といふ官(つかさ)になりて、ふるまひ給ふべき有様など、細やかに教へ奉るに、頼もしく思さるること限りなし。 かくて、年立ちかへる朝(あした)、東宮、内に参り給へる御供(おんとも)に、この人ども四人、いとやうやうしくふるまひ、気高きさまにて御供に侍りけるを、御門より始め、つかうまつる人どもも、おのおのあやしげに思へり。御門、「これは誰にか」と尋ね問はせ給へる。御供に候ける人、申ていはく、「日ごろめしつる商山の四皓に侍る」と聞こえさせ給ひけるに、御心も臆せられて、あさましくぞ思されける。これによりて、御門((底本「帝」))、四皓にのたまはく、「我、昔より汝に国の政(まつりごと)を任せんと思へりしかども、あへて聞かざりき。しかるを、若くいとけなき東宮((底本「春宮」))に従へる心知りがたし」。四皓、申していはく、「君は御心かしこくて、世中を平らげ、国を治め給へども、人を侮(あなづ)り、かしこきをも軽(かろ)め給ふ誤ちおはします。東宮((底本「春宮」))は若くおはすれども、御心をきて情け深く礼儀((底本「礼義」))を正しくし給ふと聞こえ侍るによりて、参りつかうまつれり」と聞こえさせければ、「東宮((底本「春宮」))は我よりも心かしこきにや」と思して、このことを思ひ止まらせ給ひにけり。かかれば、呂后・陳平・張良より始めて、世にある人々、さながら心安くなりにけり。 この趙隠王の母に、戚夫人と聞こゆる人は、御門を恨み妬(そね)み奉り給ひけるを、呂后いやましく心憂きことにぞ思しける。かかるほどに、御門はかなくなり給ひにけれは東宮((底本「春宮」))、位(くらゐ)につきて、よろづ御心に任せたりけれども、呂后、年ごろの御憤りにや、いつしか戚夫人を捕へて、髪を剃り、形をやつして、あさましく心憂き様(さま)になし給ひつるを、御門、「かからで侍りなむ。このこと、定めて先帝の御心に背くらん」など、様々に諫(いさ)め奉り給へども、いかにもかなはざりければ、心苦しくおはしつつ過(すぐ)し給ふに、この趙隠王さへ失なはんとし給ひければ、御門と((「と」は衍字か))夜も御傍(かたはら)に放たず起き臥し給ひけり。 后(きさき)、隙(ひま)なきことをやすからず思して、毒いれたる酒をこの人に勧め給ひけり。帝、心得て、「まづ我」とのたまひければ、慌てて取り返しつ。かやうに人知れずねんごろにし給ひけれど、いかなる隙かありけん、たぐひなく力強き女房二三人ばかりを遣はして、御門((底本「帝」))の御傍(かたはら)に臥し給へる人を、情けなく把(つか)み殺してけり。上、あさましくは思しながら、いふかひなくて止みにけり。 さて、この戚夫人、月隈なかりける夜、心憂く悲しきにつけても、昔の有様(ありさま)や思ひ出でられけん、そのよしの詩を、何となく口ずさみたりけり。耳癖(みみくせ)ありける者、これを聞き咎めて、「かかることなん侍り」と呂后に申したりけるに、今ひとしほの憎さ勝りて、足・手を切りつつ、その骸(むくろ)には漆を塗りて、世に穢らはしく汚なき溝にひたして、置かれたる有様のその物とも見えず、哀れに悲しげなり。その後、こはき物怪(もののけ)になりて、ほどなく呂后をとり殺し奉りけり。 これより先に商山四皓は、御門の御有様を心安く見なし奉りて後、暇(いとま)を申して、もとの住処(すみか)に帰りぬるを、世の人、喩へをとりて讃めていはく、「世の中の日照りにあひて、草木も枯れ、土さへ裂けて、人の命も絶えぬべきに、一度(ひとたび)雨降りつつ四方(よも)の木末(こずゑ)を潤し、門田(かどた)の稲葉も露しげく結びぬる後、八重(やへ)の雨雲山に帰り居るなるべし」となむ言ひけるこそ、まことにさもと思ゆれ。((底本、ここで改行)) また、周文王と申ける御門の御時、公望((呂尚・太公望。底本、「コウハウ」と傍書。))と聞こゆる賢人、御門に召し出だされて後、官位(つかさくらゐ)身に余れるに喜びて、帰る思ひなかりけり。 尭と申す御門、許由に位を譲らんとて、三度(みたび)まて召しけるを、「汚なきことを聞きつ」と言ひて、穎水といふ川に耳を洗ひけるも、「いかなることにか」と、をかしきやうに聞こゆ。((底本、ここで改行)) また、巣父といふ人、牛を追ひてこの河を渡らんとするに、「汚なきこと聞きて耳洗ひたる流れにしも、穢るべきかは」とて、遥かによけて通りけんもをこがましくこそ覚ゆれ。 また、水汲むひさごを一つ、竹の網戸にうち懸けたりけんが、風の吹くたびに戸に当りつつ鳴りけるをさへ、「うるさし((底本「うるはし」。諸本により訂正))」と言ひて、たちまちに割り捨ててけり。 これらを聞くにも、げにとも思えぬに、この商山四皓は情けあり、人を助くる心も深くて、誰よりも好もしき様にこそ思ゆれ。   いさぎよく耳を洗ひし川水をけがらはしとは誰か言ひけん ===== 翻刻 ===== 昔漢高祖と申御門おはしけり呂后とき こえ給后東宮恵太子(ケイタイシ)の母にてたれよりも御 心さしをもくみえさせ給けりほかはらの 親王に趙(テウ)の隠(イン)王と申人を御心さしのあまり にや御門東宮にたてんとおほしける御気 色を呂后見給てあさましう心うき 事におほして陳平張良ときこゆる二人 の臣下をめしよせてかかるいみしきこと なんあるいかにしてかこのうらみをやすむ/m352 へきとの給あはするをけにとやおもひけん かなはさらんまてもはからひ侍へしとこたえ てかへりぬ又こののち二人の人も世中のみ たれなんする事をなけきてをのをの はかり事をめくらしけり商山といふ山に よをのかれ御門のめするにもまいらて こもりゐたる賢人四人ありそれをこし らへいたしてこの恵太子につけたてまつり たらはさりともはつる心おはしなん物を とおもひよりてこの山のなかにたつね/m353 行にけり四人のひとうちみつつおとろきて いはくなにことにいとかくあやしけなる すみかにはわたり給へるにかときこえさす るよのなかみたれんとつかまつれは我らか身ま てもなけきふかくてこの山にかくれゐむと おもふ心侍りしかれともよのなかのほろひお さまらざらむ事はたたその御こころなりと いへるにこのひとうちわらひて君も我に 所をきはち給はん事いとありかたかるへけ れとむなしうかへしたてまつらんもむけ/m354 になさけなき様なれは後のことをかへりみす けふはかりは御をくりにまいるへしといへりけ れはかきりなくうれしくおほえて四人 の人をくしつつ東宮の御もとへまいりぬたち まちに学士といふつかさになりてふるまひ たまふへきありさまなとこまやかにをしへ たてまつるにたのもしくおほさるる事 かきりなしかくてとしたちかへるあした 東宮内にまいり給へる御ともにこの人とも 四人いとやうやうしくふるまひけたかきさ/m355 まにて御ともに侍けるを御門よりはしめつかう まつる人とももをのをのあやしけに思へり御門 これはたれにかとたつねとはせたまへる御供 に候ける人申ていわくひころめしつる商山の 四皓(カウ)に侍ときこえさせ給けるに御心もおく せられてあさましくそおほされけるこれに よりて帝四皓(カウ)にのたまはく我むかしより なんちに国のまつり事をまかせんとおも へりしかともあへてきかさりきしかるを わかくいとけなき春宮にしたかへる心しり/m356 かたし四皓申ていはく君は御心かしこくて 世中をたいらけくにをおさめ給へとも人をあ なつりかしこきをもかろめ給あやまちおわ します春宮はわかくおはすれとも御心を きてなさけふかく礼義をたたしくし給と きこえ侍によりてまいりつかうまつれり ときこえさせけれは春宮は我よりも心かしこき にやとおほしてこの事をおもひとまらせ 給にけりかかれは呂后陳平張良よりはし めてよにある人々さなから心やすくなり/m357 にけりこの趙隠王の母に戚夫(セキフ)人ときこゆる人は 御門をうらみそねみたてまつり給けるを呂后 いやましく心うきことにそおほしけるかかる 程にみかとはかなくなり給にけれは春宮 くらゐにつきてよろつ御心にまかせたり けれとも呂后としころの御いきとをりにやい つしか戚夫人をとらへてかみをそりかたちを やつしてあさましく心うきさまになし 給つるをみかとかからて侍なむこの事 さためて先帝の御心にそむくらんなと/m358 様々にいさめたてまつり給へともいかにもかなは さりけれは心くるしくおはしつつすくし給に この趙隠王さへうしなはんとし給けれはみかと と夜も御かたはらにはなたすおきふし給け りきさきひまなきことをやすからす おほして毒いれたるさけをこの人にすすめ 給けり帝心えてまつ我との給けれはあは ててとりかへしつか様にひとしれすねん ころにし給けれといかなるひまかありけん たくひなくちからつよき女房二三人はかりを/m359 つかはして帝の御かたはらにふし給へる人をなさ けなくつかみころしてけりうへあさましくは おほしなからいふかひなくてやみにけりさて この戚夫人月くまなかりけるよ心うくかな しきにつけてもむかしのありさまや思い てられけんそのよしの詩をなにとなくくち すさみたりけりみみくせありけるもの これをききとかめてかかることなん侍りと呂 后に申たりけるにいまひとしほのにくさ まさりてあしてをきりつつそのむくろに/m360 はうるしをぬりてよにけからはしくきた なきみそにひたしてをかれたるありさまの その物ともみえすあはれにかなしけなり其 後こはき物のけになりて程なく呂后を とりころしたてまつりけりこれよりさき に商山四皓は御門の御ありさまを心やすく みなしたてまつりてのちいとまを申てもと のすみかにかへりぬるを世の人たとへをとりて ほめていはくよのなかの日てりにあひて草木 もかれつちさへさけて人のいのちもたえぬ/m361 へきにひとたひ雨ふりつつよもの木すへを うるをしかとたのいな葉もつゆしけく むすひぬるのちやへのあま雲山にかへり ゐるなるへしとなむいひけるこそまことに さもとおほゆれ 又周文王と申ける御門の御時公望(コウハウ)ときこ ゆる賢人御門にめしいたされてのちつかさく らゐ身にあまれるによろこひてかへるお もひなかりけり尭と申御門許由にくらゐ をゆつらんとて三たひまてめしけるをきたな/m362 き事をききつといひて穎(ヘイ)水といふ川にみ みをあらひけるもいかなる事にかとおかしき やうにきこゆ 又巣父といふひと牛ををひてこの河をわたらん とするにきたなき事ききてみみあらひ たるなかれにしもけかるへきかはとてはる かによけてとをりけんもおこかましくこそ覚 れ又みつくむひさこを一たけのあみとにうち かけたりけんか風のふくたひにとにあたりつつ なりけるをさへうるはしといひてたちまちに/m363 わりすててけりこれらをきくにもけにとも おほえぬにこの商山四皓はなさけあり人をた すくる心もふかくてたれよりもこのもし き様にこそおほゆれ いさきよくみみをあらひし川水を けからはしとはたれかいひけん/m364