唐物語 ====== 第9話 張文成といふ人ありけり。姿ありさまなまめかしく・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、張文成といふ人ありけり。姿、ありさま、なまめかしく清げにて、色を好み、情け身に余れりければ、世にありとある女、さながら心強くは思えざりけり。 そのころ、時にあひ、花めかせ給ふ后(きさき)おはしましけり。あまたの御中に、よろづ優れてなむ聞こえさせ給ひければ、この夫、ひとやりならず物思ひに沈みて、生けるかひなくぞ思えける。 かかるままには、寝ても覚めても、このことの忍びがたきを、また言ひ合はする人だになかりけれど、芹(せり)を摘み地に臥して、年ごろになりぬれば、さるべきことにや、浅からぬ心の内をそらに知らせ給ひにける。あはれにいみじくは思されながら、心に任せぬ御身のふるまひなれば、慰む方さらになくて明かし暮らすに、いかなるひまかありけむ、夢に夢見る御心地して、下紐(したひも)解けさせ給ひにけり。 血の涙、袖に包むべき心地もせざりけれど。唐国(からくに)の習ひにて、かやうの事世に聞こえぬれば、いみじき大臣・公卿((底本「しし」。諸本も同じだが、「公卿」を「志々」と誤ったものと見て訂正))なれども、たちどころに命を召さるる事なれば、またも逢ひ見給はず、后もあはれにたぐひなく思され((底本「おほそれ」。諸本により訂正))ながら、雲のかけ橋途絶(とだ)えがちにて、文伝ふばかりの道だになければ、この男、七夕の年に一夜の契(ちぎり)をさへ羨みて、人知れぬ涙のみぞ絶ゆる時なかりける。 かかれども、あはただしく色に出だすことやなかりけん。「物や思ふ」と問ふ人だになくて、年月を送るに、わりなくいみじく思ゆるよしの文を作りて、后に奉りける。   恋ひわぶる空のみくづとなりぬれば逢瀬(あふせ)くやしき物にぞありける この文は『遊仙窟』と申して、我世にも伝はれり。后、これを見給ふ度(たび)に、御身滅びぬべく思されけり。唐の高宗の后に則天皇后の御事なり。 ===== 翻刻 ===== むかし張文成といふ人ありけりすかたありさま なまめかしくきよけにて色をこのみなさけ身 にあまれりけれはよにありとある女さなから心 つよくはおほへさりけりそのころ時にあひはな めかせ給きさきおはしましけりあまたの御 なかによろつすくれてなむきこゑさせ給けれ はこの夫ひとやりならす物思にしつみて いけるかひなくそおほえけるかかるままにはねて もさめてもこのことの忍かたきを又いひあはする/m324 人たになかりけれとせりをつみ地にふしてとし ころになりぬれはさるへきことにやあさからぬ心の うちをそらにしらせ給にけるあはれにいみしく はおほされなから心にまかせぬ御身のふるまい なれはなくさむかたさらになくてあかしくら すにいかなるひまかありけむ夢にゆめみる 御心ちしてしたひもとけさせ給にけりちのな みた袖につつむへき心地もせさりけれとから 国のならひにてか様の事世にきこえぬれはい みしき大臣ししなれともたち所にいのちを/m325 めさるる事なれはまたもあひみたまはすきさき もあはれにたくひなくおほそれなから雲の かけ橋とたえかちにてふみつたふはかりのみち たになけれはこのおとこたなはたのとしに一夜の ちきりをさへうらやみてひとしれぬなみたの みそたゆる時なかりけるかかれともあはたたし く色にいたす事やなかりけん物や思ととふ 人たになくてとし月をおくるにわりなくいみ しくおほゆるよしのふみをつくりてき さきにたてまつりける/m326 こひわふるそらのみくつとなりぬれは あふせくやしき物にそありける この文は遊仙窟と申て我よにもつたはれりき さきこれを見給たひに御身ほろひぬへくお ほされけり唐の高宗の后に則天皇后の御 事也/m327