閑居友 ====== 下第11話 東山にて往生する女の童の事 ====== ** 東山にて往生するめのわらはのこと ** ** 東山にて往生する女の童の事 ** ===== 校訂本文 ===== 近きほどのことにや、東山なる聖のもとに、あやしの下衆女の年二十二三ばかりなる、世心地に煩ひて、病み臥せるありけり。暇なく念仏をぞ申しける。房の主(ぬし)も事ざまよりもあはれにぞ思ひける。 さてある夕さり、言ふやう、「我はこの寅の時に死に侍らんずるなり。火など消ち給はで、よく守(まぼ)り給へ」と言ふ。房の主言ふやうは、「いみじき行ひ人だにも、その終りをばえ知らずこそ、様々に思し煩ひ侍るめるに、かくのたまはするこそ、げにとも思えず侍れ。いかなることのあれば、かくは言ふぞ」と言ひけり。女、言ふやう、「我は主(しう)の使ひに、市に交はりて、かたがたに暇(いとま)いりしかど、この七八年、日ごとに三万反の念仏はいかにも欠き侍らず。これ、さらにこの世のためにあらず。ただ、臨終正念、往生極楽のためなり。しかあるに、いみじき人来たり給ひて、『この寅の時に迎へんずるぞ。わびしとな思ひそよ』とこしらへ給へりつるなり」と言ひけり。さて、この家主(いへぬし)も寝(ゐ)も寝(ね)ず守(まぼ)り居て侍りければ、子、丑の貝を数へて、「時よくなりにけり」とて、起き居て、声を高くして、念仏十反ばかり申して、息止(とど)まりにけり。いとあはれにこそ聞こえ侍れ。 さやうの際(きは)の者は、後の世のことをば、かけふれ思ひもよらず、たださし当りたることをのみこそ、嘆きも悦びもすることにて侍るめるに、日ごとに怠りなく勤めけんこと、この世一つならぬ縁にこそ侍りけれ。 げに、かの昔の無上念王((「無諍念王」とも書く。))の御時の国の民(たみ)などにて、縁を結びて侍りけるやらん。すずろに気近(けぢか)く、頼もしく、したる勤めはなけれども、よき方人(かたうど)のやうに思えて、事に触れていささか心の澄み渡り侍るには、この仏の御名のみ唱へられ侍るぞかし。また、いささかあはれに無慙(むざう)なることを見聞くにも、まづこの仏の御名のみぞ唱へられ侍る。いかにも過ぎ来し世々(よよ)に、この仏に契りの深く侍りけるなめり。さればこそ、天台大師も、「弥陀とこの世界の極悪の衆生とは、ひとへに因縁あり」とは説き給ふらめ。 今、このあやしのことを聞くに、頼みの心ねんごろなり。願はくは、なほざりに書き流す筆の跡を訪ねて、草の庵の中に仮の寝(ね)の夢を見果て、松のとぼその間に永き別れを告げん時、必ず立ち返り、友をいざよふ縁(え)にもなせかしとなりけり。 そもそも、おろおろ伝記を尋ね侍るに、行ひは何の行ひにてもあれ、常に心を澄まして濁すまじきにこそ侍るめれ。吹く風、立つ波につけて、善知識の思ひをなして、常に心を静むべきなり。その中に、昔より、海のほとり、野の間、跡あまた見え侍れど、深山(みやま)の住居(すまゐ)ぞ澄みて思え侍る。されば、天竺・震旦(しだん)のかしこき跡を訪ぬれば、多くは深山の住居なりけり。 かかる数にもあらぬ憂き身にも、松風を友とさだめ、白雲を馴れ行くものとして、ある時は青嵐((底本「嵐」に「ラン」と傍注。))の夜、すさまじき月の色を眺め、ある時は、長松の暁(あかつき)、さびたる猿の声を聞く。ある時は、問ふかとすれば過ぎて行くむら時雨を窓に聞き、ある時は、馴るるままに荒れて行く、高嶺(たかね)の嵐を友として、窓の前に涙を抑へ、床(ゆか)の上に思ひをさだめて侍るは、何となく心も澄み渡り侍れば、それをこの世の楽しみにて侍るなり。 たとひ、後(のち)の世を思はずとも、たたこの世一つの心を遊ばせて侍らんも、悪しからじものを。海のほとりに居て、寄り来る波に心を洗ひ、谷の深きに隠れて、峰の松風に思ひを澄まさむこと、後の世のためとは思はずとも、澄み渡りて聞こゆべきにや。いはむや、思ひをまこと((底本、「ま事」))の道にかけて、濁れる人々を遠ざかり、心を憂き世の中に留(とど)めずして、世の塵にけがれじと住まはんは、などてかは悪しく侍るべき。あさましや、眼(まなこ)の前の陽炎(かげろふ)のあるかなきかの世の中に、仮の名に耽りて、長き夜を送り、偽りの色にほだされて、昔の五戒の報(むくひ)を行方なくなし果てんこと、悲しくも侍るかな。しかるを、無明の眠(ねぶ)り深くして、この世をいみじとしもは思はねど、昨日もいたづらに過ぎ、今日もむなしく暮れぬるぞかし。たそがれになりゆく時にこそ、いかに侍るやらん、同じ野寺の鐘なれど、夕べは声の悲しくて、涙も止(とど)まらず驚かれ侍り。「あはれ、仏の助けにて、常にかやうにのみ侍れかし」と嘆けども、世々(よよ)を経て思ひ慣れにける心なりければ、ひき続くことも難(かた)くてのみ明かし暮すこそ、悲しともおろかに侍れ。願はくは、釈迦如来・阿弥陀仏、すべては四方(よも)の仏たち、昔の誓ひをかへりみて、あはれみを下し給へとなり。 そもそも、この文(ふみ)二巻を記し初め侍りしかど、言葉つたなく、心短かきものゆゑ、時もむなしく移り、日影(ひかげ)もいたづらに傾(かたぶ)けば、恥ぢて硯を収むといへども、藻塩草、かき上ぐべしよし、かねて聞こえさせければ、海人の濡れ衣思ひみで、また筆執れるなるべし。 願はくは、慈しみの眼(まなこ)の前に納めて、あはれみの心の外(ほか)に散らさざれとなり。 その時は、承久四年(とせ)の春、弥生の中のころ、西山の峰の方丈の草の庵にて、記し終りぬる。 閑居友下 ===== 翻刻 ===== ちかきほとの事にや東山なるひしりのもとに あやしのけす女のとし廿二三はかりなる世心ち/下42オb233 にわつらひてやみふせるありけりひまなく念仏を そ申ける房のぬしも事さまよりもあはれ にそ思ひけるさてあるゆふさりいふやう我はこの とらのときにしに侍らんする也火なとけちた まはてよくまほりたまへといふ房のぬしいふや うはいみしきおこなひ人たにもそのおはりを はゑしらすこそさまさまにおほしわつらひ侍めるに かくのたまはするこそけにともおほえす侍いかな/下42ウb234 る事のあれはかくはいふそといひけり女いふやう我は しうのつかひにいちにましはりてかたかたにいと まいりしかとこの七八年日ことに三万反の念 仏はいかにもかき侍らすこれさらにこのよのために あらすたた臨終正念往生極楽のため也しかあるに いみしき人きたり給てこのとらのときにむか えんするそわひしとなおもひそよとこしらへ たまへりつる也といひけりさてこのいゑぬしも/下43オb235 ゐもねすまほりゐて侍けれはねうしのかいをか そゑて時よくなりにけりとてをきゐてこゑを たかくして念仏十反はかり申ていきととまり にけりいとあはれにこそきこゑ侍れさやうのき はのものは後のよの事をはかけふれ思ひもよらす たたさしあたりたる事をのみこそなけきも 悦もする事にて侍めるに日ことにおこたりなく つとめけん事このよ一ならぬえんにこそ侍けれ/下43ウb236 けにかの昔の無上念王の御時の国のたみなとにて ゑんをむすひて侍けるや覧すすろにけちかく たのもしくしたるつとめはなけれともよきかた 人のやうにおほえて事にふれていささか心のすみ わたり侍にはこの仏の御名のみとなへられ侍そか しまたいささかあはれにむさうなる事をみ きくにもまつこの仏の御なのみそとなへられ侍 いかにもすきこしよよにこの仏にちきりのふかく/下44オb237 侍けるなめりされはこそ天台大師もみたとこの せかいの極悪の衆生とはひとへに因縁ありとは説 たまふらめいまこのあやしの事をきくにたの みの心ねんころ也ねかはくはなをさりにかきなかす ふてのあとをたつねて草のいほりの中にかりの ねの夢をみはて松のとほそのあひたになかき わかれをつけんときかならすたちかへりともをい さよふえにもなせかしと也けりそもそもをろをろ伝/下44ウb238 記をたつね侍におこなひはなにのおこなひに てもあれつねに心をすましてにこすましきに こそ侍めれ吹風たつなみにつけて善知識の思ひ をなしてつねに心おしつむへき也その中にむか しよりうみのほとり野のあひたあとあまた みえ侍とみ山のすまゐそすみておほえ侍されは天 竺したんのかしこきあとをたつぬれはおほくは み山のすまゐなりけりかかるかすにもあらぬうき/下45オb239 身にも松風おともとさため白雲をなれゆくものと してあるときは青嵐(ラン)の夜すさましき月 の色をなかめあるときは長松のあかつきさひ たるさるのこゑをきくあるときはとふかとすれ はすきて行むらしくれをまとにききある時は なるるままにあれてゆくたかねのあらしをともと してまとのまへになみたををさへゆかのうへに おもひをさためて侍はなにとなく心もすみわた/下45ウb240 り侍れはそれをこのよのたのしみにて侍なり たとひのちのよおおもはすともたたこのよ一の 心をあそはせて侍らんもあしからしものを うみのほとりにゐてよりくるなみに心をあらひ たにのふかきにかくれてみねの松かせにおもひを すまさむ事のちのよのためとはおもはすともす みわたりてきこゆへきにやいはむや思ひをま事の みちにかけてにこれる人々をとをさかり心おうき/下46オb241 世中にととめすしてよのちりにけかれしと すまはんはなとてかはあしく侍へきあさましや まなこのまゑのかけろふのあるかなきかのよの 中にかりの名にふけりてなかきよををくり いつはりの色にほたされて昔の五戒のむくひお 行ゑなくなしはてん事かなしくも侍かなし かるを無明のねふりふかくしてこの世をいみ しとしもはおもはねときのふもいたつらにすき/下46ウb242 けふもむなしくくれぬるそかしたそかれに なり行時にこそいかに侍や覧おなしのてら のかねなれとゆふへはこゑのかなしくてなみた もととまらすおとろかれ侍あはれほとけのたす けにてつねにかやうにのみはへれかしとなけけ ともよよをへておもひなれにける心なりけれは ひきつつくこともかたくてのみあかしくらす こそかなしともおろかに侍れねかはくは尺迦如来/下47オb243 阿弥陀仏すへてはよものほとけたちむかしの ちかひおかへりみてあはれみをくたしたまへ と也そもそもこのふみ二巻をしるしそめ侍し かとことはつたなく心みしかきものゆへ時もむな しくうつりひかけもいたつらにかたふけははち てすすりををさむといへとももしほ草かきあく へしよしかねてきこゑさせけれはあまのぬれ きぬおもひみてまたふてとれるなるへし/下47ウb244 ねかはくはいつくしみのまなこのまへにおさめ てあはれみの心のほかにちらさされと也その時は 承久四とせの春やよひの中のころ西山のみ ねの方丈の草のいほりにてしるしおは りぬる 閑居友下/下48オb245