閑居友 ====== 下第3話 恨み深き女、生きながら鬼になる事 ====== ** うらみふかき女いきなから鬼になる事 ** ** 恨み深き女、生きながら鬼になる事 ** ===== 校訂本文 ===== 中ごろのことにや、美濃の国と聞きしなめり。いたう無下ならぬ男、ことのたよりにつけて、彼の国に、ある人の娘に行き交ふことありけり。 ほども遥かなりければ、さこそは心の外(ほか)の絶え間もありけめ、いまだ世の中を見馴れぬ心にや、ふつに憂きふしに思ひなしてけり。まれの逢瀬(あふせ)も、また、かやうの心や見えけん、男も恐しくなんなりにける。 さて、冬草のかれなん果てにければ、この女、すべて物も食はず。また年の始めにもなりぬべければ、そのそめきにも、この人の物食はぬことも、さとむる人もなし。 さて、常に障子(さうじ)を立てて、ひきかづきてのみありければ、心なく寄り来る人もなし。かかるほどに、あたり近く、飴入れたる桶のありけるを取りつつ、我が髪を五つに髻(もとどり)に結(い)ひ上げて、この飴を塗り干して、角(つの)のやうになんなしつ。人、つゆ知ることなし。 さて、紅(くれなゐ)の袴を着て、夜、忍びに走り失せにけり。これをも家の内の人、さらに知らず。 さて、「この人失せにたり。よしなき人ゆえに、心をそらになして、淵・川に身を捨てたるか」など、尋ね求むれども、さらなり。なじかはあらん。 さてのみ過ぎ行くほどに、年月も積りぬ。父母(ちちはは)も皆失せぬ。 三十年ばかりとかやありて、同じ国の中(うち)に、遥かなる野中に、破(やぶ)れたる堂のありけるに、「鬼の住み、馬牛飼う幼き者を取りて食ふ」といふ事、あまねく言ひ合へりけり。遠目に見たる者どもは、かの堂の天井((底本、「井」に「しやう」と傍書。))の上になん隠れ居る」と言ひける。 あまたの里の者、おのおの言ひ合はせて、「さらば、この堂に火をつけて焼きてみん。さて、堂を集まりて造るにこそは侍らめ。仏を仇(あた)む心にても焼かばこそ罪にても侍らめ。など言ひつつ、その日と定めて、弓・矢籠(しこ)掻い付け、やみのあきまなどしたためて、寄り来にけり。 さて、火をつけて焼くほどに、半(なか)らほど焼くるに、天井より角(つの)五つある物、赤き裳(も)腰に巻きたるが、いひ知らずけうとげなる、走り降りたり。「さればこそ」とて、各々(おのおの)弓を引きて向ひたりければ、「しばし物申さん。さうなくなあやまち給ひそ」と言ひけり。「何者ぞ」と言ひければ、「我は、これ、そこの何某(なにがし)の娘なり。悔しき心をおこして、かうかうのことをして、出でて侍りしなり。さて、その男をば、やがてとり殺してき。その後は、いかにも元の姿にはえならで侍りしほどに、世中もつつましく、居所もなくて、この堂になん隠れて侍りつる。さるほどに、生ける身のつたなさは、物の欲しさ、堪へ忍ぶべくもなし。すべて辛(から)かりけるわざにて、身の苦しみ、言ひ述べがたし。夜昼は身の内の燃え焦がるるやうに思えて、悔しく、よしなきこと限りなし。願はくは、そこたち、必ず集りて、心を致して、一日のうちに法華経書き供養して、とぶらひ給へ。また、このうちの人々、おのおの妻子(めこ)あらむ人は、必ずこのこと言ひ広めて、『あなかしこ、さやうの心をおこすな』と戒め給へ」とぞ言ひける。 さて、さめざめと泣きて、火の中に飛び入りて、焼けて死ににけり。けうときものから、さすがまたあはれなり。 げに、心の早りのままに、ただ一念の妄念にはかされて、長き苦しみを受けけむ、さこそは悔しく悲しく侍りけめ。その人の行方、よも良く侍らじものを。孝養(けうやう)もしやしけん、それまでは語るとも、覚えず侍りき。 ===== 翻刻 ===== 中比の事にやみのの国とききしなめりいた うむけならぬおとこ事のたよりにつけてか のくににある人のむすめにゆきかふ事あり けりほともはるかなりけれはさこそは心のほか のたえまもありけめいまた世中をみなれぬ心に やふつにうきふしに思なしてけりまれのあふせ もまたかやうの心やみへけんおとこもをそろしく なんなりにけるさて冬草のかれなんはてに/下7ウb164 けれはこの女すへてものもくはすまたとしの はしめにもなりぬへけれはそのそめきにも この人のものくはぬ事もさとむる人もなしさて つねにさうしおたててひきかつきてのみあり けれは心なくよりくる人もなしかかるほとにあた りちかくあめいれたるおけのありけるをとりつつ 我かみを五にもととりにいひあけてこのあめお ぬりほしてつののやうになんなしつ人つゆ/下8オb165 しることなしさてくれなゐのはかまをきて よるしのひにはしりうせにけりこれをもい ゑのうちの人さらにしらすさてこの人うせに たりよしなき人ゆえにこころおそらになして ふちかはに身おすてたるかなとたつねもとむれと もさらなりなしかはあらんさてのみすきゆくほと に年月もつもりぬちちははもみなうせぬ三十年 はかりとかやありておなし国のうちにはるか/下8ウb166 なる野中にやふれたるたうのありけるに鬼の すみ馬牛かうおさなきものをとりてくうといふ 事あまねくいひあへりけりとをめにみた るものともはかのたうのてん井(しやう)のうへになんかくれ ゐるといひけるあまたのさとの物おのおのいひあは せてさらはこのたうに火をつけてやきてみん さてたうおあつまりてつくるにこそは侍らめ 仏をあたむ心にてもやかはこそつみにても侍らめ/下9オb167 なといひつつそのひとさためてゆみしこかいつけ やみのあきまなとしたためてよりきにけり さて火をつけてやくほとになからほとやくるに 天井よりつの五あるものあかきもこしにまき たるかいひしらすけうとけなるはしりおりた りされはこそとておのおのゆみをひきてむかいたり けれはしはしもの申さんさうなくなあやまちた まひそといひけりなにものそといひけれは我はこれ/下9ウb168 そこのなにかしのむすめなりくやしき心お おこしてかうかうの事をしていてて侍しなりさ てその男おはやかてとりころしてきその後はいかにももとのすかたにはゑならて 侍しほとに世中もつつましくゐ所もなくてこの たうになんかくれて侍つるさるほとにいける身の つたなさはもののほしさたへしのふへくもなし すへてからかりけるわさにて身のくるしみいひ のへかたし夜ひるは身のうちのもゑこかるるやうに/下10オb169 おほえてくやしくよしなきことかきりなし ねかはくはそこたちかならすあつまりて心をいた して一日のうちに法花経かきくやうしてとふらひ たまへまたこのうちの人々おのおのめこあらむ人は かならすこの事いひひろめてあなかしこさや うの心をおこすなといましめたまへとそいひける さてさめさめとなきて火の中にとひいりてやけて しににけりけうときものからさすか又あはれ也/下10ウb170 けにこころのはやりのままにたた一念の妄念にはか されてなかきくるしみおうけけむさこそは くやしくかなしく侍けめその人のゆくゑよ もよく侍らしものおけうやうもしやしけん それまてはかたるともおほえす侍き/下11オb171