閑居友 ====== 下第2話 室の君、顕基に忘られて道心発す事 ====== ** むろの君顕基((底本「顕基」の右に「ケンキ」左に「アキモト」と傍注))にわすられて道心おこす事 ** ** 室の君、顕基に忘られて道心発す事 ** ===== 校訂本文 ===== 中ごろのことにや、中納言顕基、室の遊び人を思ひて、いみじくいひかはして侍りけるが、いかなることかありけん、かれがれになりゆきて、もとの室の泊(とまり)へなん、返し送りける。 この女、母なりける者に言ふやう、「これへもまうで来(く)まじく侍りつれども、『その生きておはせんほどはいかでか』と思ひて、つれなく再び故郷(ふるさと)へなん、うち向き侍りぬるなり。これにはありとも、前々(さきざき)のやうなる振舞は、今はし侍るまじきなり。その心をえ給へ」とて、ふつとといでもせず、常には心を澄まして念仏をぞ申しける。親もしばしこそは諫めけれ、後にはとかく言ふことなし。 かかるほどに、日に添へて、家の様いふかひなくなりゆきけり。されども、驚く気色(けしき)もさらになし。 さるほどに、母、病して死ぬ。積り来る七日ごとに、うち驚かす鐘の音も、えかなはぬほどになんありければ、常にはさめざめと泣き居(お)るより他のことなし。まれまれ付きたる者も、忌みにことよせて、いづちやらむ行き散りぬ。 かくて、四十九日もすでに明日になりにけり。その夕方、物あまた積みたる船なん侍りける。この女、あやしの物一人具して、この船に乗りぬ。この船は中納言のもとに下(しも)ざまに使はれける者の、田舎に遣られたりけるが、上りけるなるべし。 さて、この船の主(ぬし)、驚きて、「これは、それがしが候ふ船なり。いかでか乗せ奉らん。さは知ろしめしたりや」と言ひければ、「知りたるなり。などてかは苦しかるべき」とて乗りぬ。 さて、つとめて、まことのもの五十取らせたりけり。この女、「帰る」とて、「親の孝養(けうやう)は今日なんし果てつ」とて、髪を切りて、うち置きて出でぬ。さて、その日の仏事どもして、日ごろありつる者どもに分かち取らせなどして、我が身はやがてその日出家して、静かなる所占めて、いみじく行ひ侍りける。 さて、この船の者、京に上りて、「かうかうのこと侍りし」と、中納言に言ひければ、「さればよ、うるせしと見し者は、なほうるせかりかりけるものかな。あはれ、少なく取らせたりけるものかな。同じく百取らせよな」とて、涙ぐみ聞こえられける。 さやうの遊び人となりぬれば、さるべき前の世のことにて、いかなれども、はしはみてこそ侍るを、「あぢきなし、よしなし」と思ひ定めけむこと、たぐひなく侍るべし。人に忘らるる人は、皆恨みにまた恨みを重ねつつ、罪になほ罪を添ふることにて侍るを、ひたすら思ひ忘れて、うき世を遁るる中だちとなしけんこと、いといみじう思え侍り。妙なりと見し人の、恨みの心に堪えずして、恐しき名を留めたることは、あがりてもあまた聞こゆるに、あまさへ、世を厭ふしるへとせん事は、なほ類(たぐひ)なかるべし。 「中納言は、いみじき往生人にておはしける」と往生伝にも侍るめれば、さるべきことにて、「驚かれぬ袂にも染めかし」とて、秋風も吹き初めけるやらん、とまて思ゆ。 ===== 翻刻 ===== 中比の事にや中納言顕基むろの遊人を思ひて いみしくいひかはして侍けるかいかなる事かあり けんかれかれになりゆきてもとのむろのとまり ゑなんかへしおくりけるこの女ははなりける ものにいふやうこれへもまうてくましく侍つれと もそのいきておはせんほとはいかてかとおもひて/下4オb157 つれなくふたたひふるさとへなんうちむき侍 ぬるなりこれにはありともさきさきのやうなるふ るまひはいまはし侍ましき也その心おゑ給へ とてふつとといてもせすつねには心おすまして 念仏をそ申けるおやもしはしこそはいさめ けれのちにはとかくいふことなしかかるほとに日に そえていゑのさまいふかひなくなりゆきけりさ れともおとろくけしきもさらになしさるほとに/下4ウb158 ははやまひしてしぬつもりくる七日ことにう ちおとろかすかねのおともゑかなはぬほとになん ありけれはつねにはさめさめとなきおるよりほかの 事なしまれまれつきたるものもいみにことよせ ていつちやらむゆきちりぬかくて四十九日もすてに あすになりにけりそのゆふかたものあまたつ みたるふねなん侍けるこの女あやしの物ひと りくしてこのふねにのりぬこのふねは中納言の/下5オb159 もとにしもさまにつかはれけるもののゐ中に やられたりけるかのほりけるなるへしさてこの ふねのぬしおとろきてこれはそれかしか候 ふね也いかてかのせたてまつらんさはしろしめ したりやといひけれはしりたる也なとてかは くるしかるへきとてのりぬさてつとめてまこ とのもの五十とらせたりけりこの女かへるとて おやのけうやうはけふなんしはてつとてかみ/下5ウb160 おきりてうちおきていてぬさてその日の仏 事ともして日ころありつるものともにわかち とらせなとして我身はやかてその日出家して しつかなる所しめていみしくおこなひ 侍けるさてこのふねのもの京にのほりてかうかう の事侍しと中納言にいひけれはされはようるせ しとみしものはなをうるせかりけるものかな あはれすくなくとらせたりけるものかなおなしく/下6オb161 百とらせよなとてなみたくみきこゑられける さやうのあそひ人となりぬれはさるへきさきの よのことにていかなれともはしはみてこそ侍を あちきなしよしなしとおもひさためけ む事たくひなく侍へし人にわすらるる人は みなうらみにまたうらみをかさねつつつみに猶 つみおそふる事にて侍おひたすら思ひわすれて うきよをのかるる中たちとなしけんこといといみしう/下6ウb162 おほえ侍たえなりとみし人のうらみの心にた えすしておそろしき名おととめたる事は あかりてもあまたきこゆるにあまさへよを いとふしるへとせん事は猶たくひなかるへし 中納言はいみしき往生人にておはしけると往 生てんにも侍めれはさるへき事にておとろかれ ぬたもとにもしめかしとて秋風もふきそめ けるやらんとまておほゆ/下7オb163