閑居友 ====== 上第21話 唐橋河原の女の屍の事 ====== ** からはしかはらの女のかはねの事 ** ** 唐橋河原の女の屍の事 ** ===== 校訂本文 ===== ((底本「く侍へし」から始まるが、これは[[s_kankyo020]]の最後。))いまだむげにいとけなく侍りしほどのことにや、唐橋近き((底本「唐橋と」。諸本により訂正。))河原に、身まかれる女を捨てたること侍りき。 この女は、おのが主(しう)の夫なるものに忍びに行き会ふとて、主の女、いみじく妬(そね)みて、男の外(ほか)にある間に、様々の謀りごとを構へて、いひしらず言葉も及ばぬことどもして、忍びにひき捨てさせたるなりけり。死ぬる女は年十九にぞなり侍りける。さらぬことだにもありや、世の人の心のさがなさは、行き集まりて見るもの稲麻竹葦((底本、稲麻に「タウマ」、葦に「ヰ」と傍書。隙間なく並んでいるという意味。))のごとくぞ侍りし。 故郷の近く侍りしかば、まかりて見侍りしに、ふつに人の姿にはあらで、大きなる木の切れのやうにてぞ、足手も無くて侍りし。汚なく穢らはしきこと、譬へて言はん方なし。たとひ大海の水を傾(かたぶ)けて洗ふとも、なほ浄むることかたかるべし。ただ、よそに見るだにも忍びがたく堪へがたし。この時、誰か衾(ふすま)を重ね、枕を並ぶることあらん。 高きと下れるとこそ変れども、その身のなり行く様(さま)は、ただ同じかるべし。膚(はだへ)、肉(ししむら)を包み、筋、骨をまつひて、心にくきやうに見ゆる上に、楚山((底本「ソサン」と傍注あり。))の黛(まゆずみ)色鮮やかに描き、蜀江の衣(ころも)、匂ひなつかしう焚きなしたればこそ、むつまじくも思え侍らめ。風吹き、日曝(さら)し、皮みだれ、筋解けて、清き草葉を汚(けが)し、大空をさへ臭くなすときは、誰か肩を組み言葉を交さむや。されば、龍樹菩薩は、「愛のあたの偽りを悟りぬ」と説き給ふ。天台大師は、「もし、これを見終りぬれば、欲の心すべてやみ」と釈し給へり。 また、これまでは、なほいぶせながらも、昔の名残を見るかたもあるべし。つひに白き木の枝(えだ)のやうにて、野原の塵(ちり)と朽ち果てて、ただ蓬(よもぎ)がもとに白露((底本「しらつゆ」と表記し、右に「白露」さらにその右に「ハクロ」と傍書あり。))を留め、浅茅が原に秋風を残して、いささかの名残も無くなり侍りぬるは、いま少し夢幻(ゆめまぼろし)のやうにぞ侍るべき。 さても、うき世のならひなりければ、かかる身の有様を知らで、恨みに恨みを重ねて明かし暮す人もあるらむ。かやうにあだなる身の果てをしるべにて、「あるにもあらぬ身のゆゑに、いたづらに積りける罪こそ悔(くや)しけれ」など、思ひ続けて心を直さば、書き集むる心ざしたりぬとすべし。 さても、この河原の屍(かばね)の主(ぬし)、いたうむざうなり。一筋に悲しく恨めしき心にてこそ侍りけめ。さらに、「よも良き所に生まれ侍らじかし」とあはれにて、いささか見侍りし人を、高き賤(あや)しきを選ばず、その名を書き集めて、忍びに傍らに置きて、「少し浮みぬべきにや」と思ひ給ふる密言((底本「密こん」と表記し、「こ」に「言」と傍書。))どもおろおろ読み侍る中に、生きたりし姿をこそ見ねども、「唐橋河原の死に屍(かばね)」と記し入れて、とひ侍るぞかし。 さても、この書き置く度(たび)に袖のしほるる藻塩草の中に、その顔などのきはやかにて、ただ今その人に向かへる心地のして、ところせきまでに思ゆるもあり。また、ほのかにも見し人などは、霞みたるやうに思ゆるも侍るべし。 そもそも、このことを思ひより侍りしこと、三乗の聖を見し人は、皆罪を除き、悟りを開きき。また、昔の高僧を見し人は、皆ほどにしたがへる益ありき。いま、この身に徳もし侍らましかば、見も見えずもする人々、少しの益(やく)もあるべきを、言ひ尽しがたく、あさましく、わづかに比丘の名を盗みて、返りて三宝を欺く罪を招くべき身なれば、その益(やく)、かけてもあるまじき悲しさに驚きて、見し人の昔語りになり行く数を記して、情けをば乞ひ侍るなり。 もし、この情け、甘露の雨となり、清涼((底本「凉」に「リヤウ」と傍書。))の風となりて、各々(をのをの)ありかをとぶらはば、それをあやしの身に縁を結べる一つの益に、かつがつつかうまつらんと思ひ立ちにけるなるべし。新羅国の元暁の疏の文かとよ、「他作自受((底本「タサシシユ」と傍書。))の理(ことはり)なしといへども、しかも縁起難思((底本「エンキナンシ」と傍書。))の力あり」といへる、頼もしくこそ侍れ。 閑居友上 ===== 翻刻 ===== く侍へしいまたむけにいとけなく侍しほとの事 にやからはしと河原に身まかれる女をすてたる/上62オb131 事侍きこの女はをのかしうの夫なるものに しのひにゆきあふとてしうの女いみしく そねみておとこのほかにあるまにさまさまのはかり 事をかまゑていひしらすことはもおよはぬ事 ともしてしのひにひきすてさせたるなり けりしぬる女はとし十九にそなり侍ける さらぬ事たにもありやよの人の心のさかなさはゆき あつまりてみるもの稲麻(タウマ)竹葦(ヰ)のことくそ侍し/上62ウb132 ふるさとのちかく侍しかはまかりてみ侍しにふつに 人のすかたにはあらておほきなる木のきれの やうにてそあしてもなくて侍しきたなくけ からはしき事たとへていはんかたなしたとひ 大海のみつをかたふけてあらふとも猶きよむる 事かたかるへしたたよそにみるたにもしの ひかたくたゑかたしこのときたれかふすま をかさねまくらをならふる事あらんたかきと/上63オb133 くたれるとこそかはれともその身のなり行 さまはたたおなしかるへしはたへししむらを つつみすちほねをまつひて心にくきやうにみゆる うゑに楚山(ソサン)のまゆすみ色あさやかにかき蜀江の ころもにほひなつかしうたきなしたれはこそ むつましくもおほえ侍らめ風吹日さらしかはみた れすちとけてきよき草葉をけかしおほそら をさへくさくなすときはたれかかたをくみことはを/上63ウb134 かはさむやされは龍樹菩薩は愛のあたのいつはりを さとりぬととき給天台大師はもしこれをみおはり ぬれは欲の心すへてやみと尺し給へりまたこれま てはなをいふせなからもむかしのなこりをみる かたもあるへしつひにしろき木のえたのや うにて野はらのちりとくちはててたたよもき かもとにしらつゆ(白露・ハクロ)をととめあさちかはらに秋風を のこしていささかのなこりもなくなり侍ぬるは/上64オb135 いますこし夢まほろしのやうにそ侍へき さてもうきよのならひなりけれはかかる身の ありさまをしらてうらみにうらみをかさねて あかしくらす人もあるらむかやうにあたなる身 のはてをしるへにてあるにもあらぬ身のゆ ゑにいたつらにつもりける罪こそくやしけれな とおもひつつけて心をなをさはかきあつむる心 さしたりぬとすへしさてもこの河原のかは/上64ウb136 ねのぬしいたうむさう也一すちにかなしくうら めしき心にてこそ侍けめさらによもよき所 にむまれはへらしかしとあはれにていささか み侍し人をたかきあやしきをゑらはすその 名をかきあつめてしのひにかたはらにを きてすこしうかみぬへきにやと思給ふる密こ(言) んともおろおろよみ侍中にいきたりしすかたを こそみねともからはしかはらのしにかはねとし/上65ウb137 るし入てとひ侍そかしさてもこのかきをく たひに袖のしほるるもしほ草の中にそのかほ なとのきはやかにてたたいまその人にむかへる 心ちのしてところせきまてにおほゆるもあり またほのかにもみし人なとはかすみたるやうに おほゆるも侍へし抑この事を思より侍し事 三乗のひしりをみし人はみなつみをのそき さとりをひらききまたむかしの高僧をみし/上65ウb138 人はみなほとにしたかへる益ありきいまこの身 にとくもし侍らましかはみも見えすもする人々 すこしのやくもあるへきおいひつくしかたくあ さましくわつかに比丘の名をぬすみて返て三宝 をあさむくつみをまねくへき身なれはそのやく かけてもあるましきかなしさにおとろきて 見し人のむかしかたりになりゆくかすをし るしてなさけをはこひ侍也もしこのなさけ/上66オb139 甘露ノ雨となり清涼(リヤウ)ノ風となりてをのをのありか をとふらははそれをあやしの身にえんをむすへる 一ノ益にかつかつつかうまつらんとおもひたちにける なるへし新羅国ノ元暁の疏の文かとよ他作自(タサシ) 受(シユ)のことはりなしといへともしかも縁起難思(エンキナンシ) のちからありといへるたのもしくこそ侍れ 閑居友上/上66ウb140