閑居友 ====== 上第20話 あやしの男、野原にて屍を見て心を発す事 ====== ** あやしのおとこ野はらにてかはねをみて心ををこす事 ** ** あやしの男、野原にて屍を見て心を発す事 ** ===== 校訂本文 ===== 中ごろのことにや。山城国に男ありけり。あひ思ひたりける女なん侍りける。 何とか侍りけん、うとうとしき様(さま)にのみぞなり行きける。この女、うちくどき、「かくのみなり行けは世の中も浮き立ちて思ゆるに、誰も年のいたういふかひなくならぬ時、おのがよよになりなんも、一つの情けなるべし」と言ひけり。この男、驚きて、「え去らず思ふこと、昔につゆちりも違(たが)はず、ただし、一つのことありて、うとうとしきやうに思ゆることぞある。過ぎにしころ、ものへ行くとて、野原(のはら)のありしに、休みしに、死にたる人の頭(かしら)の骨のありしを、つくづくと見しほどに、世中あぢきなくはかなくて、『誰も死なん後は、かやうに侍るべきぞかし。この人も、いかなる人にか、かしづき仰(あふ)がれけん。ただ今は、いとけうとくいぶせき髑髏にて侍るめり。今より我妻(わがめ)の顔のやうを探りて、この様(さま)に同じきかと見んよ』と思ひて、返て探り合はするに、さらなり、などてかは異ならん。それより、何となく心も空に思えて、かく思し咎むるまでなりにけるにこそあなれ」と言ひけり。 かくて、月ごろ過ぎて妻に言ふやう、「出家の功徳によりて仏の国に生まれば、必ず返り来て、友をいざなはん時、心ざしのほどは見え申さんずるぞ」とて、掻き消つやうに失せぬとなん、ありがたく侍りける心にこそありけれ。 誰も皆、さやうのことは見るぞかし。さすが石木(いはき)ならねば、見るときはかきくらさるることもあり。いかにいはむや、目(ま)のあたり見し人の、深き情け、睦まじき姿、さもと思ゆる振舞などの、ただうたたねの夢にて止みぬるは、ことに心も発(おこ)りぬべきぞかし。しかはあれど、憂かりける心の習ひにて、時移り事((「事」は底本「時」で右に「事歟」と傍注。傍注に従い訂正。))去りぬれば、声立つるまでこそなけれども、笑(ゑわら)ひなども侍るべきにこそ。 かかるに、この男の、深く思ひ入れて忘れず侍りけんこと、かねては、彼の天竺の比丘のごとく、昔の世に不浄観などを凝らしける人の、この度(たび)思はぬ縁に会ひて、うき世を出づる種と成しけるにやとも思ゆ。 昔、いかなりける屍(かばね)の、せめてもこの人を導かんとて、あだし野の露消えも果てなで残りけるやらんと、おぼつかなくあはれなり。「あはれや、昔の聖の屍にや」とも思ひやり侍り。羅什三蔵((底本「羅什」に「ラシフ」、「蔵」に「サウ」と傍注。鳩摩羅什のこと。))の御母の塚のほとりにて、人の骨の白きを見給ひて道心発(おこ)して、長くうき世を出で果て給ひけん、思ひ出でられてあはれなり。 げにも、心あらむ人、これを見むばかり、道心発(おこ)りぬべきことやは侍る。されば、弘法大師((空海))は、「白き虫、穴の中にむくめき、青き蠅、口の中(うち)に飛ぶ。昔のよしみを尋ねんとするに、一度(たび)は悲しみ、一度は恥づべし」とぞ書き給へる。止観の中に、人の死にて身のみだるるより、つひにその骨を拾ひて煙(けぶり)となすまでのことを説きて侍るは、見る目も悲しう侍るぞかし。 かやうの文(ふみ)にも暗き男の、おのづからその心発りけんこと、なほなほありがたく侍るべし。((底本、「いまたむけにいとけなく侍しほとの事」と続くが、これは[[s_kankyo021]]の冒頭。)) ===== 翻刻 ===== 中比の事にや山城国に男ありけりあひおもひ たりける女なん侍けるなにとか侍けんうとうとし きさまにのみそなりゆきけるこの女うちくと きかくのみなりゆけは世中もうきたちておほ ゆるにたれもとしのいたういふかひなくならぬ時 おのかよよになりなんもひとつのなさけなるへし といひけりこのおとこをとろきてゑさらすおも ふ事むかしにつゆちりもたかはすたたし一の事/上59オb125 ありてうとうとしきやうにおほゆる事そある すきにしころものへゆくとてのはらのありし にやすみしに死たる人のかしらの骨のありし をつくつくとみしほとに世中あちきなくはかなく てたれもしなんのちはかやうに侍へきそかし この人もいかなる人にかかしつきあふかれけんたた いまはいとけうとくいふせきとくろにて侍めりいま より我めのかほのやうをさくりてこのさまに/上59ウb156 おなしきかとみんよとおもひて返てさくり あはするにさら也なとてかはことならんそれよ りなにとなく心もそらにおほえてかくおほし とかむるまてなりにけるにこそあなれとい ひけりかくて月ころすきてめにいふやう出家 の功徳によりて仏ノ国にむまれはかならす返き てともをいさなはんとき心さしのほとはみゑま うさんするそとてかきけつやうにうせぬとなん/上60オb127 ありかたく侍ける心にこそありけれたれもみな さやうの事はみるそかしさすかいはきならねは みるときはかきくらさるる事もありいかにいは むやまのあたりみし人のふかきなさけむつま しきすかたさもとおほゆるふるまひなとの たたうたたねの夢にてやみぬるはことに心もを こりぬへきそかししかはあれとうかりける心のな らひにて時うつり時(事歟)さりぬれはこゑたつるまて/上60ウb128 こそなけれともゑわらひなとも侍へきにこそかかる にこのおとこのふかく思いれてわすれす侍けん事 かねてはかの天竺ノ比丘のことく昔のよに不浄 観なとをこらしける人のこのたひおもはぬえん にあひてうきよをいつるたねとなしけるにや ともおほゆむかしいかなりけるかはねのせめても この人を道ひかんとてあたしののつゆきゑも はてなてのこりけるや覧とおほつかなくあは/上61オb129 れなりあはれや昔のひしりのかはねにやとも おもひやり侍羅什(ラシフ)三蔵(サウ)ノ御母のつかのほとりに て人ノ骨のしろきをみたまひて道心をこし てなかくうきよをいてはて給けん思ひいてられて あはれ也けにも心あらむ人これをみむはかり道心 おこりぬへき事やは侍されは弘法大師はしろき むしあなの中にむくめきあをきはへ口のうち にとふむかしのよしみをたつねんとするに/上61ウb130 一たひはかなしみ一たひははつへしとそかきた まへる止観のなかに人のしにて身のみたるる よりついにそのほねをひろひてけふりとな すまての事をときて侍るは見るめもかなし う侍そかしかやうのふみにもくらきおとこの おのつからその心をこりけん事なをなをありかた く侍へしいまたむけにいとけなく侍しほとの事/上62オb131