閑居友 ====== 上第12話 近江の石塔の僧の世を遁るる事 ====== ** あふみのいしたうの僧の世をのかるる事 ** ** 近江の石塔の僧の世を遁るる事 ** ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、近江国石塔((底本「石堂」。諸本により訂正))といふ所に僧ありけり。年半ばに余りて、世を厭ふ心なん深く侍りける。 さて、日に添へては、人に肩を並ぶることなど、飽きたく侍りければ、「寺のまじらひを離れん」と思ひて、暇(いとま)を乞ひけれど、人々惜しみて許さず。 さて、この人、いみじく思ひ嘆きて日ごろを経るほどに、そこ近く、所の長(おさ)なる男の身まかれるありけり。その跡につねに行きて、ある時は縁の上に夜を明かし、ある時は昼忍びに来て立ち帰ることもありけり。かかりければ、このあるじの女は、「日ごろも心発(おこ)したる人と聞くにあはせで、心の色をも増さんとするよな。あはれなるべき心の中の情けかな」と思ひ居り。 さて、度重なりければ、人々、「あやしのわざや」など言ひけり。ある人は、「罪の得ること、な聞こえ給ひそ。我におきてはうけひかず。かかること聞かじ」など、もて離るる者もあり。かくて月ごろを送るほどに、げにただごととも思えずありければ、あまねくこの筋がちに言ひなりにけり。 さて、この寺は、「さやうの聞こえある人はなし」とて、房切り、様々に恥がましきことありて、追ひ出だしつ。この人、「年ごろありつきて、離れまうく侍れど、今はさらにかひなし」とて、出でぬ。さて、遥かなる所にあやしの庵(いほり)結びて、ただ一人居りけり。 さて、この女、伝へ聞きて、わび嘆くこと限りなけれども、いまだ細やかなる対面もせねば、嘆くにも便りなし。また、人づてに聞こえさすべきことにもあらねば、さてのみ日を送る。 さて、その後は、この人ふつとこの家に寄り来ることなし。夜昼を分かず念仏を申す。つねには道場に居て西に向ひて定印((底本「印」に「イン」と傍書。))を結びて観念をしけり。食ひ物などは、人の情けをかくる時は、それをなん日を送るはかりごとにしける。また、おのづから絶え間などのある時は、里に出でて乞ふこともありけり。かくて、あまたの年を経ぬ。 さて、あるとき、この女の家に来て、「見参(げざん)すべきことあり」と言ひけり。あやしく、「何事ならん」とて、急ぎて会ひたれば、「いかにも世を遁るることを思ひあつかひて侍りしに、そこの御徳に、年ごろの本意(ほい)をなん遂げて侍る。今、極楽に参らんずることの近く侍れば、その悦び申さむとてなん、詣で来たる」と言ひて出でぬ。 さて、七月七日、草のとざし静かにして、ひそかに息絶えにけり。その時、あやしき雲、空に見えければ、人々驚きて尋ぬるに、この人の隠れぬることを知りぬ。さて、七日が間、あまねく人に縁をなん結ばせける。いみじくありがたく侍りける心の内なるべし。 人のならひには、いかになり果つるまでも、ほどにふれつつ、「骨をば埋(うづ)むとも名をば埋まじ」と思ひためるに、今、この人の様(さま)、いかでか仏も御覧じとがめす侍るべき。かやうにふつに身を捨て侍る人には、終りの時、必ず目立たしきほどの瑞相((底本「瑞」に「スイ」と傍書。))の侍るなめり。なほなほあはれに侍り。 ===== 翻刻 ===== 中ころ近江国石堂といふ所に僧ありけりとし なかはにあまりて世をいとふ心なんふかく侍ける さて日にそえては人にかたをならふる事なと あきたく侍けれは寺のましらひおはなれんと思ひ ていとまをこひけれと人々をしみてゆるさすさて この人いみしく思ひなけきて日ころをふるほとに/下34ウb76 そこちかくところのおさなる男の身まかれるあ りけりそのあとにつねにゆきてあるときはえんの うへに夜をあかしあるときはひるしのひにきて たちかへる事もありけりかかりけれはこのあるし の女は日ころも心おこしたる人ときくにあはせて 心の色をもまさんとするよなあはれなるへき心の 中のなさけかなと思ひおりさてたひかさなり けれは人々あやしのわさやなといひけりある人は/下35オb77 つみのうる事なきこゑたまひそ我におきては うけひかすかかる事きかしなともてはなるる物 もありかくて月ころををくるほとにけにたた事 ともおほえすありけれはあまねくこのすちかちに いひなりにけりさてこのてらはさやうのきこ ゑある人はなしとて房きりさまさまにはちかまし き事ありておひいたしつこの人としころあ りつきてはなれまうく侍れといまはさらにかひな/下35ウb78 しとていてぬさてはるかなる所にあやしのいほ りむすひてたたひとりおりけりさてこの女つた ゑききてわひなけく事かきりなけれともいまたこ まやかなるたいめんもせねはなけくにもたよりなし また人つてにきこゑさすへき事にもあらねはさて のみ日ををくるさてその後はこの人ふつとこのいゑに よりくる事なし夜ひるをわかす念仏を申 つねには道場にゐてにしにむかひて定印(イン)をむす/下36オb79 ひて観念をしけりくいものなとは人のなさけをかくる ときはそれをなん日ををくるはかり事にしける またをのつからたへまなとのあるときはさとにいてて こふ事もありけりかくてあまたのとしをへぬ さてあるときこの女のいゑにきてけさんすへき 事ありといひけりあやしくなに事ならんとて いそきてあひたれはいかにもよをのかるる事を思ひ あつかひて侍しにそこの御とくにとしころのほい/下36ウb80 をなんとけて侍いま極楽にまいらんする事のちかく 侍れはその悦申さむとてなんまうてきたるといひ ていてぬさて七月七日草のとさししつかにして ひそかにいきたへにけり其時あやしき雲そらにみへ けれは人々おとろきてたつぬるにこの人のかくれぬ る事をしりぬさて七日かあひたあまねく人に えんおなんむすはせけるいみしくありかたく侍け る心のうちなるへし人のならひにはいかになりはつる/下37オb81 まても程にふれつつほねをはうつむとも名をはうつ ましとおもひためるにいまこの人のさまいかてか仏 も御覧しとかめす侍へきかやうにふつに身を すて侍人にはをはりのときかならすめたたしき ほとの瑞(スイ)相の侍なめりなをなをあはれに侍り/下37ウb82