閑居友 ====== 上第8話 唖の真似をしたる上人の、まことの人に法文云ふ事 ====== ** おしのまねをしたる上人のまことの人に法文云事 ** ** 唖の真似をしたる上人の、まことの人に法文云ふ事 ** ===== 校訂本文 ===== 中ごろ、あづまの方に、国々を回りて、ものも言はで、ものを叩きて、かたの如く、ものなど乞ひて食ふ、唖(をし)なる僧ありけり。いかにも、げにもの言はぬ者とは思えず、ただ偽れることとぞ見えける。また、姿・ことざまも、いみじく尊くなつかしくぞ侍りける。 ある僧、このことを怪しみて、いみしう食ひ物など用意して、「そもそも、この度(たび)うき世を出で給ふべきまことの道は、いかが心得侍るべき。ただ一口のたまはせよかし。人の心のいささかもつき侍らんは、いみじき御功徳にこそ侍らめ」と言ひけれど、耳にも聞き入れず、立ち走りて出でけるを、はるかに走り慕ひて、「いかてか、さばかりの心ざしをば失なひ給ふべき。必ず身に思しつめたらむこと、一つ言ひ捨てておはせよ」と言ひければ、見返りて、「豈離伽耶別求常寂非寂光外別有娑婆(キ・リ・カ・ヤ・ベツ・グ・ジヤウ・ジヤク・ヒ・ジャ・クワウ・ゲ・ベツ・シャ・バ)((底本、右に片仮名で音読み、左に平仮名で訓読みと送り仮名を記している。本文に従うと、「豈に伽耶を離れて別に常寂を求め、寂光の外に非ずして別に娑婆に有らんや」と読むか。))」とぞ、言ひ捨てて去りにける。まことにいみじく、尊く侍りけることなり。 天台宗法文の魂(たましひ)、ただこれにて侍るにこそ。かやうに常に思ひけん心の底は、いかばかり清く澄みわたりて侍りけん。 この文の心は、「このうき世の外に別(べち)に仏の国なし」。惑ひの人の前には、あやしの木・草茂りたる穢らはしき所と見ゆれども、悟りの眼(まなこ)の前には、波の音、風の声、皆妙(たゑ)なる御法(みのり)を唱へ侍るぞかし。 されば、天竺・晨旦のいみじき高僧たちは、「みな、縄床に晏坐して定印を結び、眼(まなこ)を閉ぢて、かやうに観ぜしかば、徳至り功積りて、常に諸仏菩薩を見、常に六道の有様を見る」とも侍るめり。かやうのこと、書き尽し難く、言ひ出づるにも憚りあるべし。心ざしあらむ人、わざとかやうのこと知れらん人に尋ぬべし。 今、このあづまの僧の振舞、あはれに思え侍り。さても「観念・坐禅は、すでに世も下り、時も過ぎにたり」など言ふ人も侍るべし。必ずしもさは侍るまじきにや。広く禅宗の文に見えたり。 ===== 翻刻 ===== 中比あつまのかたに国々おまはりてものもいはて ものおたたきてかたのことくものなとこひてくふ をしなるそうありけりいかにもけにものいはぬもの とはおほえすたたいつはれる事とそ見えけるまた すかたことさまもいみしくたうとくなつかしくそ/上23オb53 侍けるある僧この事をあやしみていみしうくい物 なとよういしてそもそもこのたひうき世をいて給へ きまことの道はいかか心え侍へきたた一くちのたまはせよ かし人の心のいささかもつき侍らんはいみしき御功 徳にこそ侍らめといひけれと耳にもききいれす たちはしりていてけるをはるかにはしりし たひていかてかさはかりの心さしをはうしなひ給 へきかならす身におほしつめたらむ事ひとついひ/上23ウb54 すててをはせよといひけれはみかへりて豈(キ・あに)離(リ・はなれて)伽(カ)耶(ヤ・を)別(ヘツ) 求(ク・もとめ)常(シヤウ)寂(シヤク・を)非(ヒ・して)寂(シャ)光(クワウ)外(ケ・に)別(ヘツ・)有(ウ・らんや)娑(シャ)婆(ハ)とそいひすててさ りにけるまことにいみしくたうとく侍ける事也天台宗 法文のたましいたたこれにて侍にこそかやうに つねにおもひけん心のそこはいかはかりきよくすみ わたりて侍けんこのふみの心はこのうきよのほかに へちに仏の国なしまとひの人のまへにはあやしの 木草しけりたるけからはしき所とみゆれともさ/上24オb55 とりのまなこのまゑにはなみのおと風のこゑみなた ゑなるみのりおとなへ侍そかしされは天竺晨旦 のいみしき高僧たちはみな縄床に晏坐して定印を むすひまなこをとちてかやうに観せしかはとくいた りこうつもりてつねに諸仏菩薩をみつねに六道の ありさまをみるとも侍めりかやうの事かきつくし かたくいひいつるにもははかりあるへし心さしあら む人わさとかやうの事しれらん人にたつぬへし/上24ウb56 いまこのあつまの僧のふるまひあはれにおほえ侍 さても観念坐禅はすてによもくたりときもすき にたりなといふ人も侍へしかならすしもさは侍ま しきにやひろく禅宗のふみにみへたり/上25オb57