成尋阿闍梨母集 ====== 二巻(20) 四月一日律師の御房院の御修法に夜べよりあるとて・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 四月一日、律師(りし)の御房((成尋阿闍梨母のもう一人の子。))、「院の御修法に、夜べよりある」とて、近くおはするにも、まづ思ひ出でられてぞ思え給ふる。人の、「験(しるし)ある人少なき」など言ふに、「この世界に余りたる御心など、おはしけるにか」と、いかにもさることと思えてぞ。 稚児どもの、藤の花をもてあそぶに、「いまは卯の花も咲きぬらむ」と思ふにも、耳とどめられて   山賤(やまがつ)の垣根の上と聞きしかど世をうの花は今ぞ咲きける と思ふほどに、人々の、「この月は神のことすかし」と言ふに、思ふ   ことづけむ人もなけれはみ山なる葉守(はもり)の神を思ひこそやれ 「賀茂の祭、斎院も、院まだかはり給はで、いかが」など、よしなしこと言ふも、耳にとどめられて   そむきにしわが身なれとも神代よとあふひといふぞ耳とどめつる など思ふほどに、五月も近くなりて、五日、菖蒲のこと、幼き者、心地よげに言ふもあはれに、思ふことなき気色なり。   そこにとも知らぬこひぢの菖蒲草いつかあふちの花をこそ待て と思ふにも、「憂き身かな」と空を見やれば、曇りふたがりて、日もなし。   雲間なき空をながむる五月雨(さみだれ)の袖の雫(しづく)も雨に劣らぬ など思ひつつ過ぎ行くにも、なほうち返しつつ、身のありさまを思ふも、昔より思はずなる身なりけり。 あやしく、頼みし人も、さるべきほどに失せ、母も十余(よ)にて、いとよくおはしぬべかりし、とく失せ給ひて、この君だちの幼きを頼む人にて、待ちつつ多くの年を過ぎて、朝夕いとひし、命長きあまりに、世にたぐひなきことも見るにこそと、いと心憂く、同じことをうち返し、うち返し、歎き侍る。 ===== 翻刻 ===== なけきつつすきゆく四月一日りしの御房 院の御す法によへよりあるとてちかくおはす るにもまつ思ひいてられてそおほえ給人 のしるしある人すくなきなといふにこの せかいにあまりたる御こころなとおはしける にかといかにもさることとおほえてそちこ とものふちの花をもてあそふにいまはうの はなもさきぬらんとおもふにもみみとと められて やまかつのかきねのうへとききしかと 世をうのはなはいまそさきける とおもふほとに人々のこの月は神のことすかし といふにおもふ/s66r ことつけむ人もなけれはみやまなる はもりの神を思ひこそやれ かものまつり斎院も院またかはり給はて いかかなとよしなしこといふもみみにととめられて そむきにし我身なれとも神よよと あふひといふそみみととめつる なと思ふほとに五月もちかくなりて五日さう ふのことおさなき物心地よけにいふもあは れにおもふことなきけしきなり そこにともしらぬこひちのあやめ草 いつかあふちのはなをこそまて とおもふにもうきみかなと天を見やれは くもりふたかりて日もなし/s66l くもまなきそらをなかむるさみたれの そてのしつくもあめにおとらぬ なとおもひつつすきゆくにも猶うちかへしつつ みのありさまを思ふもむかしよりおもはす なる身なりけりあやしくたのみし人 もさるへきほとにうせははも十よにて いとよくおはしぬへかりしとくうせたま ひてこのきんたちのおさなきをたのむ 人にてまちつつおほくのとしをすきて あさゆふいとひしいのちなかきあまりに 世にたくひなきこともみるにこそと いと心うくおなしことをうちかへしうちかへしなけ きはへるむかしさりともとたのみきこえ/s67r