成尋阿闍梨母集 ====== 二巻(17) 正月になりてもこの月のつごもりぞかし岩倉より仁和寺へ渡りしは・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 正月になりても、「この月のつごもりぞかし、岩倉より仁和寺(にわじ)へ渡りしは」と思ひ出づるに、「三年になりにける」と、いとあはれなるにも、「おぼつかなく隔てける年かな」とぞ、   あまたたび年も暮れゆく別れにはわがみとせをや忘られぬらむ など、独りごつ。 正月七日ぞ、治部の君((源隆俊))の文持て来たりし僧の、「筑紫へまかで、唐人の渡らむたよりに参りて、やがて御房のこなたにおはせんに来む」と言ふに、文(ふみ)書きて取らすれど、行方(ゆくへ)も知らぬ心地してぞあるに、「まだ、京にありとこそ聞け」とあり。 心も得られねば、え取りも返さでぞ、あやしくおぼつかなく思ひ侍るに、二月十四日、岩倉より、「唐より筑紫なる人のもとにおこせ給へる文」とて、「殿ばらに持て来たる」とてあるを見侍れば、去年(こぞ)の正月一日ありける。 「三月十九日、筑紫の肥前の国、松浦の郡(こほり)に、壁島といふ所を離れて、同じ二十三日、みむしう((明州か。))のふくゐ山を見る。そこに、三日の風なくてあるに、はじめて羊の多かるを見る。同じ二十九日、ゑしう((越州か。))のしらのそく((思胡の浦か。))に着く。たよりの風なくして、数の日をつめらる。四月十三日、杭州のふかく天に着く。二十九日、大都(たいと)の守、なんつい山((南屏山か。))のきようかけ寺((興教寺か))に、受け来たる八人の僧に、さいすはし重く迎へらる。日本の朝(てう)の面目(めぼく)とす。五月一日、筆ぞ((「筆ぞ」は底本「ふてそう」。「う」の衍字とみて削除))賜はりて」 人々あれど、ここには文もなし。「筑紫にあり」と聞けど、見えねば、おぼつかなさは、慰むかたもなし。 ただ、「本意(ほい)かなひて、心ゆき給へらんぞ。さは、かしこにおはし着きて見給ふべき人にこそ」と、少しことわらるれど、わが身のおぼつかなさ、ただ今日か明日かを待つ命なれば、この世のことも思ゆまじ。いとど、遥かなる別れなりけむ身のほど、あはれにぞ。 年ごろも心にかけたる西の方をうちながめつつ、入り日の折りは拝むに、ともすれば曇り、雲の隠すに、   その方(かた)と慕ふ入り日を立ち隠す世にうき雲のいとはしきかな よろづにつけて、身のみ厭はしけれど、心憂かりける命長さをぞ思ひわびては、「さはありとならば、阿闍梨(あざり)おはして、この世に見え給へかし。それこそは長命(いのち)のかひならめ」と思へど、心地の弱り行くさまは、あるべくも思え侍らず。   尽きもせず落つる涙はからくにのとわたる船におりはへもせじ とのみ、独りごちて、目は霧つつ過ぐす。 ===== 翻刻 ===== そらめのみしつつすくす正月になりても/s60l この月のつこもりそかしいはくらより にわしへわたりしはとおもひいつるに 三年になりにけるといとあはれなる にもおほつかなくへたてけるとし かなとそ あまたたひとしもくれゆくわかれには 我みとせおやわすられぬらん なとひとりこつ正月七日そちふの君のふみもて きたりしそうのつくしへまかてたう人の わたらんたよりにまいりてやかて御房のこなた におはせんにこんといふにふみかきてとらす/s61r れとゆくゑもしらぬ心地してそあるにまた京 にありとこそきけとあり心もえられねは えとりもかへさてそあやしくおほつかなく思ひ 侍るに二月十四日いはくらよりたうよりつくし なる人のもとにおこせ給へる文とてとのはら にもてきたるとてあるをみ侍れはこその 正月一日ありける三月十九日つくしのひせんの 国まつらのこほりにかへしまといふ所をはな れておなし廿三日みむしうのふくゐ山を みるそこに三日の風なくてあるにはしめて ひつしのおほかるを見るおなし廿九日ゑ しうのしらのそくにつくたよりの風なくして/s61l かすの日をつめらる四月十三日かうしうの ふかく天につく廿九日たいとのかみなんつい 山のきようかけ寺にうけきたる八人の そうにさいすはしをもくんかへらる日本 のてうのめほくとす五月一日ふてそう給 はりて人々あれとここにはふみもなしつく しにありときけとみえねはおほつかなさは なくさむかたもなしたたほいかなひて 心ゆき給へらんそさはかしこにおはしつき て見給ふへきひとにこそとすこしことわら るれと我身のおほつかなさたたけふかあす かをまついのちなれはこのよのことんお/s62r ほゆましいととはるかなるわかれなりけん 身のほとあはれにそとしころも心にかけ たるにしの方をうちなかめつついり日のおり はおかむにともすれはくもりくものかくすに そのかたとしたふいり日をたちかくす よにうき雲のいとはしきかな よろつにつけてみのみいとはしけれと心うか りけるいのちなかさをそ思ひわひてはさは 有とならはあさりおはしてこのよにみえ 給へかしそれこそは長いのちのかひならめ とおもへと心地のよはり行さまはあるへく もおほえはへらす つきもせすおつるなみたはからくにの とわたるふねにおりはへもせし/s62l とのみひとりこちてめはきりつつすくすたうより/s63r