成尋阿闍梨母集 ====== 二巻(7) 人々のおのが思ひ思ひもの言ふも耳にも聞き入れられず・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 人々の、おのが思ひ思ひもの言ふも耳にも聞き入れられず、ゆかしう、おぼつかなきことのみ思ゆるに、十月にもなりぬ。 時雨(しぐ)るる雨の音、いたうすれば、荒々しう聞こ聞こゆれば、   あらましき雨の音にもはるかなるこのもといかが時雨降るらん とぞ思ゆるに、霰(あられ)の降りそひたるが見ゆれば、   つらかりし春の別れに今までもあるにもあらで霰ふるかな など独りごつほどに、岩倉より、「御房((成尋))、淀におはして、御迎へに人往(い)ぬ」と言ひたり。 夢の心地して、胸騒ぎて、嬉しきにも心まどひて騒ぐに、十月十三日の、火灯すほどにぞおはしたるに、見るに涙こぼれて、目も霧りたるに、いとつれなくうち笑みて、「さればこそ、『生きて待ちつけ給へ』と、仏に申すに、おはしける。『今四年おはせ』と祈るなり」とぞのたまふ。「『今一度(ひとたび)来て見よ』とありし文(ふみ)のいとほしさになむ、詣(ま)で来たる。なほ、さりぬべく、心安く詣(ま)で来む」と言ひて、「その夜(よ)、悪しき日なり」と、急ぎ給ふ。 律師(りし)((成尋阿闍梨母のもう一人の子))もおはし会ひたり。二人、向ひ居給へる見るにも、「かくておはさうぜで、身の死なむも、もろともに見給へかし。などか、世づかぬ心付き給ひけむ」とのみぞ思ゆる。 律師のおはするに聞こえ給ふ。「岩倉にまかりて、忘れたる文など取りて、明日、申の時ばかりに詣(ま)で来て、やかて淀にまかりて、備中の国に侍(はべ)なる新山と申(ま)すなる所にしばし侍りて、近くて、そのほどにおぼつかなきこと侍らず。これよりもの給へ。かれよりも申さむ」など言ひ置きて、立ちぬ。 なかなかにいも寝られず、「これは夢か」とのみ思ゆ。思ひ明かして、「さらば、今日だに、とくおはせかし」と待つに、からうじておはしたり。鳥などの、人を見て飛び立ちぬ気色はし給へるに、見るにつけても、「いかなりける契りにか」と、目もかき暗るるやうに、涙のみぞ、尽きせずこぼるるに、のたまふ。 「この、まかりてしばし侍らむずる所は、昔、人の行ひて、極楽に必ず参りたる所なり。百日ばかり行ひて、正月ばかりまかでて、なほ、内に宣旨(せじ)申して、賜(た)はば、本意(ほい)のやうに唐に渡りて、申して来む。賜(た)はずは、留まりてこそは侍らめ」とのたまひて、出で給ふ。 「見む」と思へど、目も霧りて、ものも言はれず思ゆるほどに、大殿((藤原頼通を指すと思われる。))よりも、こと殿ばらよりも、御文どもあれど、「菩提求むる人は、やんごとなく、えさらず、あるまじきことを、捨ててこそあなれ。かくしまかり歩(あり)けど、御祈りどもは、よそにても、みなつかうまつりてこそはあれ」とて、「『ただ、今一度(ひとたび)見よ』とありし文より、かく詣(ま)で来たるなり。必ず正月には詣(ま)で来なむ」とのたまふに、「なほ、この度(たび)は率(ゐ)ておはして、唐に渡り給はん折りに帰らむ。おこせ給へ」と言へば、うち笑ひて、「修行者、親なりとも、いかが具し聞こえむとする」とて出で給ふ。 この甥の禅師(ぜじ)どもの、児の親したふやうに泣くに、いとど目も暗れて、「顔をだによく、こたみだに見聞こえむ」と思ふに、霧りふたがりて見えず。なかなかおはして、おどろかし給へる悲しさ、いふかたなし。 面影にのみ思えて、歎きわぶるに、「船に乗り給ひぬ」とて、送りの人々来たり。 「これは何事ぞ」と、言ふかたなく悲しく、かたがた、いまいましく、「いたく思はじ」と思ひ返しつつぞ。 時雨すれば、人々、「神月はかうぞある」などいふに、   祈りても影みたらしと言ふべきに頼むかたなき神無月かな ===== 翻刻 ===== いひつつなくさめはへる人々のをのか思ひ思ひ ものいふもみみにもききいれられすゆ かしうおほつかなきことのみおほゆるに 十月にもなりぬしくるるあめのおと/s41r いたうすれはあらあらしうきこゆれは あらましきあめのおとにもはるかなる このもといかかしくれふるらん とそおほゆるにあられのふりそひたるか みゆれは つらかりしはるのわかれにいままても あるにもあらてあられふるかな なとひとりこつほとにいはくらより御 房よとにおはして御むかへに人いぬと いひたりゆめの心地してむねさはきて/s41l うれしきにも心まとひてさはくに十 月十三日の火ともすほとにそおはし たるに見るになみたこほれてめも きりたるにいとつれなくうちゑみて されはこそいきてまちつけたまへと 仏に申すにおはしけるいま四年おは せといのるなりとそのたまふいまひと たひきてみよとありしふみのいとを しさになんまてきたる猶さりぬへ く心やすくまてこんといひてそのよ/s42r あしき日なりといそき給りしもおは しあひたりふたりむかひゐたまへる 見るにもかくておはさうせてみのし なんももろともに見たまへかしなとか よつかぬこころつきたまひけんとのみ そおほゆるりしのおはするにきこえ 給いはくらにまかりてわすれたるふみ なととりてあすさるの時許にまてき てやかてよとにまかりてひ中のくにに はへなるにひやまとますなる所にしはし/s42l 侍てちかくてそのほとにおほつかなき ことはへらすこれよりものたまへかれより も申さんなといひおきてたちぬなかなか にいもねられすこれはゆめかとのみおほ ゆ思ひあかしてさらはけふたにとくお はせかしとまつにからふしておは したりとりなとの人を見てとひ たちぬけしきはしたまへるにみるに つけてもいかなりけるちきりにかと めもかきくるるやうになみたのみそ/s43r つきせすこほるるにのたまふこのまか りてしはしはへらんする所はむかし人 のおこなひてこくらくにかならすまい りたる所也百日はかりおこなひて正月 はかりまかてて猶内にせし申してたはは ほいのやうにたうにわたりて申してこん たはすはととまりてこそは侍らめとの たまひていてたまふ見んとおもへと めもきりてものもいはれすおほゆる ほとに大殿よりもこと殿はらよりも 御ふみともあれと菩提もとむる人はやん/s43l ことなくえさらすあるましきことをす ててこそあなれかくしまかりありけと 御いのりとんはよそにてもみなつかう まつりてこそはあれとてたたいまひ とたひみよとありしふみよりか くまてきたるなりかならす正月 にはまてきなんとのたまふになを このたひはゐておはしてたうに わたり給はんをりに返らんおこせ給へ といへはうちわらひて修行者おやな りともいかかくしきこえんとするとて/s44r いてたまふこのおひのせしとものちこ のおやしたふやうになくにいととめも くれてかほほたによくこたみたに見 きこえんとおもふにきりふたかりて みえすなかなかおはしておとろかし給へる かなしさいふかたなしおもかけにのみ おほえてなけきわふるにふねに のり給ぬとておくりの人々きたり これはなにことそといふかたなくかな しくかたかたいまいましくいたくおもはしと 思返しつつそしくれすれは人々神な月/s44l はかうそあるなといふに いのりてもかけみたらしといふへきに たのむかたなき神な月かな/s45r