十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事 ====== 10の64 唐の玄宗の帝年ごろ月を愛する志深くして・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 唐の玄宗の帝(みかど)、年ごろ月を愛する志深くして、夜々むなしくし給ふ事なかりけり。道士、これを感じて、帝に申すやう、「君、月を愛し給ふこと、年久し。月の中を見せ奉らん」と奏しければ、帝、悦びてしたがひ給ふ。 道士、八月十五夜の月の午時((諸本すべて午で正午ごろ(昼)。子、牛(丑)の誤りなどの説がある。))ばかり、庭に立ちて、桂の枝を月に向ひて投げ上げたりければ、銀の階(きざはし)、月の宮に続きけり。この時に、道士、先立ちて、引き奉る。 昇ることいくほどならずして、月の内に入り給ひぬ。玉の宮殿、玉の楼閣、数知らず。舞台の上に、十二人の妓女舞ふ。おのおの白衣を着たり。楽の声、舞の姿、のどかに澄めば、玉を動かすかんざし、雪をめぐらす袖、みな光り輝けり。 二階の宮殿あり。甍(いらか)ごとに玉を磨きて、目もあてられず。玉の簾(すだれ)を上げて、一人の主(あるじ)、これを見る。すべて、ものの音、舞の姿、所のありさままでも、心もおよび給はず。斧の柄も朽ちぬべく思(おぼ)されけれど、名残惜しながら、舞だに見はてずして、帰り給ひにけり。 帝、この曲を心にしめて、世にとどめ給へり。盤渉調の声なり。霓裳羽衣といふ、すなはちこれなり。中ほどばかりを見給ひけるによりて、始終もなき楽なりといへり。 ただし、このことおぼつかなし。古き目録にも、「霓裳羽衣は壱越調の楽なり。もとの名をば壱越波羅門といひけるを、同じ帝の時、天宝年中に、もとの名を改めて、霓裳羽衣と名づく」と記せり。よくよくたづぬべし。 ===== 翻刻 ===== 六十七唐ノ玄宗ノ御門トシコロ月ヲアイスル志フカクシテ、夜々 ムナシクシ給事ナカリケリ、道士是ヲ感シテ帝ニ 申様、君月ヲ愛シ給事年久、月ノ中ヲ見セ奉ラン ト奏シケレハ、帝悦テ随給、道士八月十五夜ノ月ノ 午時ハカリ、庭ニ立テ桂ノ枝ヲ月ニムカヒテナケア ケタリケレハ、銀ノキサハシ月ノ宮ニツツキケリ、此時ニ 道士サキ立テ引タテマツル、昇事イクホトナラスシ テ、月ノウチニ入給ヌ、玉ノ宮殿玉ノ楼閣カスシラス舞 台ノ上ニ十二人ノ妓女マフ、各白衣ヲ着タリ、楽ノ声 舞ノスカタノトカニスメハ、玉ヲウコカスカンサシ、雪ヲメ/k109 クラス袖、ミナヒカリカカヤケリ、二階ノ宮殿アリ、イラカ コトニ玉ヲミカキテ、目モアテラレス、玉ノスタレヲアケテ 一人ノアルシ此ヲミル、スヘテ物ノ音舞ノスカタ、所ノア リサママテモ、心モオヨヒ給ハス、オノノエモクチヌヘクオホ サレケレト、ナコリヲシナカラ、舞タニ見ハテスシテ帰 給ニケリ、御門此曲ヲ心ニシメテ世ニトトメ給ヘリ、盤渉 調ノ声ナリ、霓裳羽衣トイフ即是也、中ホトハカリ ヲ見給ケルニヨリテ、始終モナキ楽也トイヘリ、但此 事オホツカナシ、フルキ目録ニモ霓裳羽衣ハ壱越 調ノ楽也、本ノ名ヲハ壱越波羅門ト云ケルヲ、同御門ノ/k110 時天宝年中ニモトノ名ヲ改メテ、霓裳羽衣ト名ト シルセリ、能々タツヌヘシ、/k111