十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事 ====== 10の60 基綱卿年たけてのち帥になりて下されける時白河院・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 基綱卿((源基綱))、年たけてのち、帥になりて下されける時、白河院、「年高くなりて、はるかにおもむく、心細く思しめす。琵琶の秘事など、誰にか伝へおける。聞こしめしおくべきことなり」と仰せられければ、「時俊((源時俊))・重通((源重通。信綱とも))などに、形のごとく伝へ((底本「つかへ」。諸本により訂正。))おき侍れども、その器に足らず侍れば、孫にて候ふ小女に、秘事の底をはらひて、教へおきて侍り。もし聞こしめすべきことあらば、かれを召すべし」と申し、下りにけり。 そののち、筑紫にて隠れ給ひければ、法皇((白河院))、「かしこくぞ、尋ねおきてける」と思しめし出でて、かの小女を召して、琵琶を聞こしめすことありけり。いまだ色なりければ、柑子色(かうじいろ)の袴着て、鈍色(にぶいろ)の衣(きぬ)ども着て、掻き合はせより三曲まで、数を尽して弾きたりける、いとどめでたかりけり。 年は十三にて、いと小さかりければ、琵琶引の昔語((白居易「琵琶行」を指す。))、思ひやられて、あはれなりけり。 この小女は、尾張守高階為遠が女、輔の女(むすめ)の腹なり。のちの待賢門院((藤原璋子))に参りて、「尾張」とて候ひけり。 年たけてのち、尼になりて、大原にぞ住みける。二条院((二条天皇))の御師のために召しけれども、籠り居にてのちなりければ、「今さらに」とて、忘れたるよし申して、参らざりけり。 この尾張、女房にて若かりける時より道心ありて、止観読まむの志ありて、歩行(かち)にて、小女童(こめのわらは)一人を具して、大原の良仁聖のもとへ行きつつ、習ひ読みけり。 ある時、さきざきのやうに来迎院へ参りたりけるに、例時のほどにて、御堂の局に入れて、「例時はてて、会はん」とありけるほどに、女房、心のうちに思ふやう、「深く学問の志あるによりて、身をやつして、かく常に詣づるに、志をあはれみて教へ給ふことはうれしけれども、聖の御ため、悪しき名や立ち給はんずらん。もししかれば、ゆゆしき罪にてありなんかし。さらば、かく詣づることは、今はさなくてやあるべき」など案じたるほどに、例時はてて、障子を引き開けておはして、「ただ今、心のうちに思はせ給ふこと、学問の退心、さらさらあるべくも候はず」と言はれけり。権者にておはしけるにや。 さて、女房、出家して、つひにここに住みけり。 ===== 翻刻 ===== 六十三基綱卿年タケテ後、帥ニナリテ下サレケル時、白河院 年タカクナリテ遥ニオモムク心ホソク思食ス、比巴ノ秘事 ナト、タレニカツタヘヲケル、聞食ヲクヘキ事ナリト被仰/k101 ケレハ時俊重通ナトニ如形ツカヘヲキ侍レトモ、其器ニ タラス侍レハ、孫ニテ候小女ニ秘事ノ底ヲ払テ教ヘヲ キテ侍リ、モシ聞食ヘキ事アラハ、彼ヲメスヘシト申下ニ ケリ、其後筑紫ニテカクレ給ケレハ、法皇カシコクソ尋 ヲキテケルト思食出テ、彼小女ヲメシテ比巴ヲ聞食事 有ケリ、イマタイロナリケレハ、カウシ色ノ袴キテ、ニフイロノ キヌトモキテ、カキアハセヨリ三曲マテ数ヲツクシテ引 タリケル、イトト目出タカリケリ、年ハ十三ニテ、イトチヰ サカリケレハ、比巴引ノ昔語思ヤラレテ哀ナリケリ、 此小女ハ尾張守高階ノ為遠カ女輔ノムスメノ腹ナリ、/k102 後ノ待賢門院ニ参テ尾張トテ候ケリ、年タケテ後 尼ニナリテ、大原ニソスミケル、二条院ノ御師ノタメニメシケ レトモ、籠居ニテ後ナリケレハ、今更ニトテ忘タルヨシ申テ 参サリケリ、此尾張女房ニテ若カリケル時ヨリ、道心ア リテ止観ヨマムノ志有テ、歩行ニテ、コメノワラハ一人ヲ 具シテ、大原ノ良仁ヒシリノモトヘ行ツツ習ヒヨミケリ、 或時サキサキノヤウニ来迎院ヘ参タリケルニ、例時ノ程 ニテ、御堂ノ局ニ入レテ、例時ハテテアハント有ケル程ニ、 女房心ノウチニ思ヤウ、フカク学問ノ志有ニヨリテ、身 ヲヤツシテカク常ニ詣ルニ、志ヲ哀ミテ教給事ハウ/k103 レシケレトモ、聖ノ御タメアシキ名ヤ立給ハンスラン、モシ然ハ ユユシキ罪ニテ有ナンカシ、サラハカクマウツル事ハ、今ハサナ クテヤ有ヘキナト案シタル程ニ、例時ハテテ障子ヲ引ア ケテヲハシテ、只今心ノウチニ思ハセ給事、学問ノ退心更 々有ヘクモ候ハストイハレケリ、権者ニテオハシケルニヤ、サ テ女房出家シテ遂ニココニ住ケリ、/k104