十訓抄 第十 才芸を庶幾すべき事 ====== 10の50 さてもとよりさるべききははことわりなり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== さて、もとより、さるべききはは、ことわりなり。すべて及ばぬほどの身なれども、芸能につけて、望みをとげ、賞をかぶる者、古今数を知らず多し。あやしの賤(しづ)の((底本「あしつの」。諸本により訂正。))遊女(あそび)、傀儡(くぐつ)までも、郢曲にすぐれ、和歌を好む輩、よき人にももてなされ、撰集をもけがす。 そのためし、あまた聞こゆるなかに、亭子の御門((宇多天皇))、鳥養院にて御遊ありけるに、「とりかひ」といふことを、人々詠ませられけるに、遊女・傀儡、あまた参り集まれり。そのなかに、歌よくうたひて、声良きものを問はるるに、「丹波守玉淵((大江玉淵))が女(むすめ)に、白女」と申せり。 御門、御舟に召し乗せて、「玉淵は詩歌にたくみなりし者なり。その女ならば、この歌を詠むべし。さらば、まこととおぼしめすべき」よしを、仰せらるるほどもなく詠めり。   深みどりかひある春にあふ時は霞ならねど立ちのぼりけり この時、御門、ほめあはれみ給ひて、御袿(うちぎ)一重を賜はせけり。そのほか、上達部・四位、おのおの衣(きぬ)脱ぎてかけければ、二間ばかりに積み余りにけりとなん。 同じ女、源実、筑紫へまかりける時、山崎にて別れを惜しみけるところにて、   命だに心にかなふものならはなにか別れのかなしからまし と詠めりける。のちに『古今集((古今和歌集))』に入れり。 しかのみならず、肥後国の遊君、檜垣嫗は『後撰集((後撰和歌集))』に入り、神崎の遊女、宮木は『後拾遺集((後拾遺和歌集))』をけがす。青墓の傀儡、名曳は『詞花集((詞花和歌集))』をゆり、江口の遊女、妙は『新古今((新古今和歌集))』の作者なり。 女にもかぎらず。壬生忠岑は舎人なれども、古今撰者につらなり、山田法師は非人にして、同集をけがす。 歌どもは、こと長ければ、注(しる)さず。 ===== 翻刻 ===== サテモトヨリサルヘキキハハ、コトハリナリスヘテオヨハヌ程 ノ身ナレトモ、芸能ニツケテ望ヲトケ賞ヲカフル物、古 今数ヲシラス、多シ、アヤシノアシツノアソヒククツマテモ、郢 曲ニスクレ和哥ヲコノム輩、ヨキ人ニモモテナサレ、撰集ヲ/k87 モケカス、其タメシアマタ聞ユル中ニ、亭子御門鳥養院ニ テ御遊有ケルニ、トリカヒト云事ヲ人々ヨマセラレケルニ、 アソヒククツアマタ参リ集レリ、其中ニ哥ヨクウタヒテ 声ヨキモノヲトハルルニ、丹波守玉渕カ女ニ白女ト申セリ、 御門御舟ニメシノセテ、玉渕ハ詩哥ニタクミナリシモノナ リ、其女ナラハ此哥ヲヨムヘシ、サラハ実トオホシメスヘ キヨシヲ仰ラルル程モナクヨメリ、 フカミトリカヒアル春ニアフトキハ、霞ナラネトタチノホリケリ、 此時御門ホメアハレミ給テ、御ウチキ一重ヲ給ハセケリ、 其外上達部四位各キヌヌキテカケケレハ、二間ハカリニ/k88 ツミアマリニケリトナン、同女源実筑紫ヘマカリケル時、 山崎ニテワカレヲ惜ミケル所ニテ、 命タニ心ニカナフモノナラハ、ナニカ別ノカナシカラマシ トヨメリケル、後ニ古今集ニイレリ、加之肥後国遊君檜 垣嫗ハ後撰集ニ入、神崎遊女宮木ハ後拾遺集ヲケ カス、青墓傀儡名曳ハ詞花集ヲユリ、江口遊女妙ハ 新古今ノ作者也、女ニモカキラス、壬生忠岑ハ舎人ナレ トモ、古今撰者ニツラナリ、山田法師ハ非人ニシテ、同集 ヲケカス、歌トモハ事ナカケレハ不注、/k89