十訓抄 第九 懇望を停むべき事 ====== 9の5 後江相公の澄明におくれて後世をとぶらはれける願文に・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 後江相公((大江朝綱))の澄明((大江澄明))におくれて、後世をとぶらはれける願文に、   悲之亦悲 莫悲於老後子   恨而更恨 莫恨於少先親 と書けるも、前後相違の恨み、げにさこそはと、さりがたくあはれに思ゆれ。 江淹が恨の賦に、 >平原に人のかばねあり。蔓草骨にまつへり。拱木魂をおさむ。人生((底本「氏生」。諸本により訂正。))ここにいたれり。天道ここに論ぜむや。僕もとより恨みたる人なり。心驚くことやまず。ただいにしへの人の、恨みに伏して死にしを思ふ などあるこそ、いみじくあはれなれ。 しかのみならず、唐帝の楊貴妃に別れし恨みは、「長恨歌」といふ文、名において聞こえ、漢皇の李夫人におくれし恨み、いかばかりなりけん。 >骨は化して塵となるとも、この恨長く有て、消ゆる((底本「消える」。諸本により訂正。))期なからん と、楽府に書かれたる、いと罪深くこそ聞こゆれ((底本「聞えれ」。諸本により訂正。))。 およそ、妹背(いもせ)の仲の恨み浅からぬためしは、いひ尽しがたし。契りしにあらぬ夕暮の空には、更けゆく鐘の音もすずろに恨めしく、あかぬ名残の暁の空の恨みには、すぐさぬ鳥の音さへ恨めし。 これ、ひとへに愛着生死の業なれども、木石ならぬ身の習ひにて、この恨みに沈むたぐひ、古今数を知らず。ただ、傾城の色にあはざらんことを、こひ願ふべし。 そもそも、人間の八苦の中には、怨憎会苦といへるは、ものの恨めしきなり。国王・大臣もこれを離れ給はず。いはんや、その次下をや。 しかれば、「心にもののかなはぬこと、世の習ひぞかし」と思ひなして、さてはなくて、愚かなる人、理をかへりみず、さしたる恨の出できぬるをり、心のはやりのままに、こととはず、官(つかさ)をのがれて、入りこもり、家を捨てて、都を出づるたくひこれあり。その道心だに進み通るものならば、浮生の栄花ひらけても、いくほどかはあらんなれば、しかるべき善知識とも悦ぶべきに、身はさすがに捨て果てられぬものなれば、恨みは末も通らず、後悔しきりにもよほして、あるいは、今さら世に出で走り仕へ、あるいは、高野・粉河の隠れ((「隠れ」は底本「くれ」。諸本により補う。))よりも、いつしか帰り来ぬるこそ、人笑はれに、いふにかひなけれ。 かからむにつけても、「なかなか思ひ知らぬ顔にて、ただ居たりせば、はるかに心にくからまし」と、よそにもどかしく思ゆるためし多かり。 さのみは、人の上なれば記さず。かの西行が歌に、   柴の庵(いほ)に身をば心のさそひきて心は身にもそはずなりぬる と詠めるこそ、げにさりと思ゆれ。 ===== 翻刻 ===== 七後江相公ノ澄明ニヲクレテ後世ヲ訪レケル願文ニ 悲之𡖋悲莫悲於老後子 恨而更恨莫恨於少先親 ト書ルモ、前後相違ノ恨、ケニサコソハト、サリカタクアハレニ覚 レ、 八江淹カ恨ノ賦ニ、平原ニ人ノカハネ有リ、𦽦草骨ニマツヘ リ、拱木タマシヰヲオサム、氏生ココニイタレリ、天道ココニ論 セムヤ、僕モトヨリ恨タル人也、心驚ク事ヤマス、只イニシヘ ノ人ノ恨ニフシテ死シヲ思ナト有コソイミシク哀ナレ、加 之唐帝ノ楊貴妃ニ別レシ恨ハ、長恨歌ト云文名ニオイ/k26 テキコエ、漢皇ノ李夫人ニヲクレシ恨、イカハカリナリケ ン、骨ハ化シテ塵トナルトモ、此恨長ク有テキエル期ナカ ラント、楽府ニカカレタル、イトツミフカクコソ聞エレ、凡イモ セノ中ノ恨アサカラヌタメシハ、云ツクシカタシ、契シニアラ ヌユフクレノ空ニハ、フケユク鐘ノ音モススロニ恨メシク、 アカヌ名残ノ暁ノ空ノ恨ニハ、スクサヌ鳥ノ音サヘ恨 メシ、是偏ニ愛着生死ノ業ナレトモ、木石ナラヌ身ノ 習ニテ、此恨ニシツムタクヒ、古今不知数、只傾城ノ色ニア ハサラン事ヲ乞願フヘシ、 抑人間ノ八苦ノ中ニハ、怨憎会苦ト云ルハ、物ノ恨メシキ也、/k27 国王大臣モ是ヲハナレ給ハス、況ヤ其次下ヲヤ、然レハ心ニ 物ノ叶ハヌ事、世ノ習ソカシト思ナシテ、サテハナクテ、 愚ナル人理ヲカヘリミス、指タル恨ノ出キヌルオリ、心ノ ハヤリノママニ、コトトハスツカサヲノカレテ入コモリ、家ヲ ステテ都ヲ出ルタクヒ有之、其道心タニススミトヲル物 ナラハ浮生ノ栄花ヒラケテモ、幾程カハ有ンナレハ、可然 善知識トモ悦ヘキニ、身ハサスカニステハテラレヌ物ナ レハ、恨ハスエモトヲラス、後悔頻ニ催シテ、或ハ今更世ニ出 趨リ仕ヘ、或ハ高野粉河ノクレヨリモ、イツシカ帰来ヌ ルコソ、人ワラハレニ云ニカヒナケレ、カカラムニ付テモ、中々思知/k28 ヌカホニテタタイタリセハ、遥ニ心ニクカラマシト、ヨソニモト カシク覚ユル、タメシ多カリ、サノミハ人ノ上ナレハシルサス、カ ノ西行カ哥ニ、 シハノ庵ニ身ヲハ心ノサソヒキテ、ココロハ身ニモソハスナリヌル トヨメルコソ、ケニサリトオホユレ、/k29