十訓抄 第九 懇望を停むべき事 ====== 9の4  斉信民部卿の宰相の時才幹すすめるによりて兄の誠信の君を・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 斉信民部卿((藤原斉信))の宰相の時、才幹すすめるによりて、兄の誠信((藤原誠信))の君を越えて、中納言になり給しに、誠信、わが身の憂きを忘れて、さしあたりける恨みに耐へず、「くちをし」と思ひ給へりけるにや、七日といふに、恨み死(じに)に死に給へりける。 手を握りて失せ給けるが、心や強かりけん、指の爪、みな甲(かふ)へ通りたりけりとぞ。 弟に越さるること、帝王・臣下をはじめとして、そのためし少なからず。たちまちに、かくしもあるべきかはと、おそろし。 三条内大臣公教公((藤原公教))の御子、実綱中納言((藤原実綱))、弟(おとうと)の君達、実房((藤原実房))・実国((藤原実国))などに越えられて、   いかなればわが一連(ひとつら)のかかるらむうらやましきは秋の雁がね など詠み給ひけんも、恨みは深くこそ、おぼしめしけめども、かかることはなかりき。誠信の目前に、悪趣の報を感ぜしめ給ひけむ、よしなくこそ思ゆれ。 顕基中納言((藤原顕基))の、常は「罪なくて配所の月を見ばや」と言はれけるには似給はず。よき善知識のついでを得ながら、身をむなしくなしはてし、無益(むやく)のことか。 これのみならず、寛算が雷となり、清和((清和天皇))の前身の、法華経を悪趣に廻向せし、恨みの深きゆゑなり。 ===== 翻刻 ===== 五斉信民部卿ノ宰相ノ時、才幹ススメルニヨリテ、兄ノ誠信 ノキミヲ越テ、中納言ニ成給シニ、誠信我身ノウキヲ 忘テ、指当ケル恨ニタヘス、口惜ト思給ヘリケルニヤ、七日 ト云ニ、恨ミ死ニ死給ヘリケル、手ヲニキリテ失給ケルカ、心 ヤツヨカリケン、指ノ爪皆コウヘトヲリタリケリトソ、弟 ニコサルル事、帝王臣下ヲ始トシテ其タメシスクナカラ ス、忽ニカクシモアルヘキカハトオソロシ、/k24 六三条内大臣公教公ノ御子実綱中納言、オトヲトノ君達 実房実国ナトニ越ラレテ、 イカナレハワカヒトツラノカカルラム、ウラヤマシキハ秋ノカリカネ ナトヨミ給ケンモ、恨ハ深コソオホシメシケメトモ、カカル事ハナ カリキ、誠信ノ目前ニ悪趣ノ報ヲ感セシメ給ケム、ヨシナ クコソ覚レ、顕基中納言ノ、ツネハツミナクテ配所ノ月ヲ ミハヤト云レケルニハ似給ハス、ヨキ善知識ノ次ヲエナカラ、 身ヲ空クナシハテシ無益ノ事カ、是ノミナラス寛算カ 雷トナリ、清和ノ前身ノ法華経ヲ悪趣ニ廻向セシ、恨 ノフカキユヘ也、/k25