十訓抄 第八 諸事を堪忍すべき事 ====== 8の序 ある人いはくよろづのことを思ひ忍ばんはすぐれたる徳なるべし・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== **第八 諸事を堪忍すべき事** ある人いはく、よろづのことを思ひ忍ばんは、すぐれたる徳なるべし。 人の心中に、もろもろのあやしきことをのみ思ふ。これを忍ばざるは、あさましかるべし。人の身の上に、さまざまの苦しみあり。これを忍ばざるは、世に立ちめぐるべからず。なかにも、年若き輩は、飢ゑを忍びて、道を学び、寒きを忍びて君に仕へつつ、家をおこし、身を立つるはかりごとをすべきなれば、なにごとにつけても、かたがたものに耐へ忍ぶべきなり。 おほかた、このことをたもてるを、「五の徳ある人」といふ。五戒十善など名づけて、よろづの罪を失ふ法とせり。一切の罪を犯すこと、ものに忍びえぬがいたすところなり。 この故にや((底本「を故にや」。諸本により訂正。))、源信僧都四十一ヶ条起請、第一、   設雖有不叶心事   思忍全不起瞋恚 とあり。 かかれば、聖教をとぶらふも、七賢位のなかに忍法位とも立て、六度のなかに忍辱波羅蜜とも称し、十地には堪忍地とも号し、証果をば無生忍ともいふ。釈尊をば能忍とも名づけ奉る。羅睺羅尊者は忍辱第一なり。このゆゑにや、唐には多くのあたひにて、「忍」といふ文字を書きて守(まぼり)にしたる人ありけり。 しかれば、荒れたる軒に生ひたる、あだなる草までも、かかる名を得たれば((ノキシノブグサを指す。))、なべてはすまじきとぞ。なかにも、「雪山にある草を、名づけて忍辱草と為す」といふ文あり。かの霊草の同名にかよひぬ。尋瑞草といふ名もあれば、いかにもうちある名のたぐひにはあらず。 法師品((『法華経』法師品))の、   加刀杖瓦石   念仏故応忍 の文を、彼の草に寄せて、寂念((藤原為業。寂蓮の誤りか。))が読める。((底本「新古寂蓮云々中務少輔定長俊忠帥孫」という割注あり。))   深き夜の窓打つ雨に音せぬはうき世をのきのしのぶなりけり 不軽品((『法華経』常不軽菩薩品))の心を、江以言((大江以言))が詩にも作れり、   真如珠上塵厭礼   忍辱衣中石法縁 五郎中将((在原業平))の、「のちも頼まむ」と詠める歌の詞(ことば)もをかしく、周防内侍が「われさへのきの」と書きつけける筆跡もゆかし。花園左大臣((源有仁))、かの草のもみぢにつけて、心の色をあらはし給ひけるも、やさしく思ゆ。 いづかたにつけても、思ひ捨てがたき草の名なり。 ===== 翻刻 ===== 十訓抄下  第八可堪忍于諸事事 第九可停懇望事  第十可庶幾才芸事 第八可堪忍于諸事事 或人云、ヨロツノ事ヲ思ヒシノハンハ、勝タル徳ナルヘシ、人ノ 心中ニ諸ノアヤシキ事ヲノミ思フ、是ヲ不忍ハアサマシカ ルヘシ、人ノ身ノ上ニサマサマノ苦ミアリ、是ヲ不忍ハ世ニ立 メクルヘカラス、中ニモ年ワカキ輩ハ、飢ヲ忍ヒテ、道ヲマ ナヒ、寒ヲ忍テ君ニツカヘツツ、家ヲヲコシ身ヲ立ルハカリ/k1 コトヲスヘキナレハ、何事ニツケテモ、カタカタ物ニタヘシノ フヘキ也、大方此事ヲタモテルヲ五ノ徳アル人トイフ、五 戒十善ナト名付テ、ヨロツノ罪ヲ失ナフ法トセリ、一切 ノ罪ヲオカス事、物ニシノヒヱヌカイタス所也、ヲ故ニヤ 源信僧都四十一ヶ条起請第一設雖有不叶心事思 忍、全不起瞋恚トアリ、カカレハ聖教ヲ訪モ七賢位ノ中 ニ忍法位トモタテ六度ノ中ニ、忍辱波羅密トモ称シ、 十地ニハ、堪忍地トモ号シ、証果ヲハ無生忍トモ云、釈尊ヲ ハ能忍トモ名ケ奉ル、羅睺羅尊者ハ忍辱第一也、此故 ニヤ唐ニハ多クノ直ニテ忍ト云文字ヲ書テマホリニ/k2 シタル人有ケリ、然ハアレタル軒ニ生タルアタナル草マテ モ、カカル名ヲ得タレハ、ナヘテハスマシキトソ、中ニモ雪山ニ有 草ヲ名テ為忍辱草ト云文アリ、彼霊草ノ同名ニカヨ ヒヌ、尋瑞草ト云名モアレハ、イカニモウチアル名ノタクヒ ニハ非ス、法師品ノ加刀杖瓦石念仏故応忍ノ文ヲ、彼 草ニヨセテ寂念カヨメル、(新古寂蓮云々中務少輔定長俊忠帥孫) 深夜ノマトウツ雨ニヲトセヌハウキ世ヲノキノシノフナリケリ 不軽品ノ心ヲ江以言カ詩ニモ作レリ、 真如珠上塵厭礼 忍辱衣中石法縁 五郎中将ノ後モタノマムトヨメル歌ノ詞モオカシク周防内/k3 侍カワレサヘノキノトカキツケケル筆跡モユカシ、花薗左大 臣彼草ノモミチニツケテ、心ノ色ヲアラハシ給ヒケルモヤサ シクオホユ、イツカタニツケテモ、思ステカタキ草ノ名也、/k4