十訓抄 第七 思慮を専らにすべき事 ====== 7の22 隆禅律師按察大納言隆季の法事の導師にて坊に帰りたる夜部・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 隆禅律師、按察大納言隆季((藤原隆季))の法事の導師にて、坊に帰りたる夜部、尼一人来て、「大和国の人を尋ぬるが、日暮れたり。また食物もなし。今夜、これに候はん。食物あて給(た)び候へ」と言ひければ、食物を与へて、宿してけり。 夜に入りて、門を叩く者あり、「使庁の使ひなり」と言ふ。「その尼、多く盗犯の沙汰にかかりたるなり。許し出だすな」と言ひて帰りぬ。 これによりて、かの尼を縛りてあひ待つ((底本「待つ」なし。諸本により補入。))ほどに、夜更けて、判官殿といふ者来て、また門を叩く。「この尼を請ひ取らむとするか」とて、入れて、隆禅みづから対面してけり。 ここに判官と名乗るもの、隆禅を捕らへて、刀を抜きて、脇にさし当てて、「なんぢ、もし動きはたらかば、殺てん。坊中の人、声を出だすな」と言ひて、そのほどに、塗籠・倉などひき開けて、資財・雑物、若干運び取りて、馬十余疋に負はせて、尼公をも、隆禅をも、馬に乗せて、粟田山へゐて行きて、解き許す。さて、おのおの去りにけり。 かの秦の始皇帝、高漸離に謀られて、剣にのぞめりけるは、燕の国の図にふけりて、みづから出であひ給へるゆゑなり。隆禅、無縁の尼をあはれぶ。慈悲の心を元として、かかる目にあひけるこそ、あさましけれ。 これらのことまでも、よく心すべきなり。 ===== 翻刻 ===== 廿五隆禅律師按察大納言隆季ノ法事ノ導師ニテ、 坊ニカヘリタル夜部、尼一人来テ大和国ノ人ヲ尋ヌル/k144 カ日暮タリ又食物モナシ、今夜是ニ候ハン、食物アテ タヒ候ヘト云ケレハ、食物ヲアタヘテヤトシテケリ、夜ニ 入テ門ヲ叩ク者アリ、使庁使也ト云、其尼オホク盗 犯ノ沙汰ニカカリタルナリ、ユルシ出スナト云テ帰ヌ、 是ニヨリテ彼尼ヲシハリテ相程ニ、夜フケテ判官殿 ト云者来テ又門ヲ叩ク、此尼ヲ請取ムトスルカトテ入 レテ、隆禅自対面シテケリ、ココニ判官トナノルモノ、 隆禅ヲトラヘテ、刀ヲヌキテ脇ニサシアテテ、汝若動 キハタラカハ殺テン、坊中ノ人声ヲイタスナト云テ、其 程ニヌリコメ倉ナト引アケテ、資財雑物若干運ヒ 取テ、馬十余疋ニ負セテ、尼君ヲモ隆禅ヲモ馬ニ/k145 乗テ粟田山ヘヰテ行テ、トキユルス、サテ各去ニケリ、 彼秦始皇帝高漸離ニハカラレテ釼ニノソメリケ ルハ、燕ノ国ノ図ニフケリテ、自出相給ヘル故也、隆禅無縁 ノ尼ヲアハレフ慈悲ノ心ヲ元トシテ、カカル目ニアヒケル コソアサマシケレ、此等ノ事マテモ能ク心スヘキナリ、/k145