十訓抄 第七 思慮を専らにすべき事 ====== 7の9 四条大納言寛弘二年のころ月ごろ恨みありて出仕もし給はず・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 四条大納言((藤原公任))、寛弘二年のころ、月ごろ恨みありて、出仕もし給はず、大納言辞退し申さんとせられけるに、匡衡((大江匡衡))を招きて、「辞表を奉らむと思ふあひだ、時の英才、斉名((紀斉名))、以言((大江以言。底本「似言」と誤るを訂正。))らにあつらへしむといへども、なほ心にかなはず。貴殿ばかりそ書きひらかれむと思ふ」と言はれければ、匡衡、なまじひに請け取りて、家へ帰りて、愁歎の気色あり。 時に、妻、赤染右衛門((赤染衛門))、「何ぞ」と尋ぬるに、「かかることなり。かの輩は才学優長なり。しかるを、それにまさりて書き述べんこと、きはめてありがたし」と答へければ、赤染、うち案じて、「かの人、ゆゆしく矯飾ある人なり。わが身の先祖、やんごとなき者にてありながら、沈淪の旨を書かざるか。早く、この旨を出だすへし」と言ふ。 匡衡、かの輩の草を見るに、まことにその趣きなし。「もっともしかるべし」とて、打ち立てにいふは、「臣は五代の太政大臣の嫡男也、曩祖忠仁公より以来」といふより、次第に数へあげて、わが身の沈めるよしを書きて、持ちて行くところに、感歎して喜べる気色なり。 よりて、これを用ゐられけり。 ===== 翻刻 ===== 九四条大納言寛弘二年ノ比、月来恨アリテ出仕モシ給 ハス、大納言辞退シ申サントセラレケルニ、匡衡ヲマネ キテ、辞表ヲ奉ラムト思フ間、時英才斉名似言等 ニ誂ヘシムトイヘトモ、ナヲ心ニ不叶、貴殿ハカリソ書 ヒラカレムト思フトイハレケレハ、匡衡ナマシヒニ請取テ 家ヘ帰リテ愁歎ノ気色アリ、時ニ妻赤染右衛門何 ソトタツヌルニ、カカル事也彼輩ハ才学優長ナリ、然 ヲ其ニマサリテ書ノヘン事、極メテアリカタシト答ヘ ケレハ、赤染打案シテ彼人ユユシク矯餝アル人ナリ、 我身ノ先祖ヤンコトナキモノニテ有ナカラ、沈淪ノ旨 ヲカカサルカ、早ク此旨ヲ出ヘシト云、匡衡彼輩ノ草/k124 ヲ見ニ、実ニ其趣ナシ、尤可然トテ、打立ニ云ハ臣ハ五 代ノ太政大臣ノ嫡男也、曩祖忠仁公ヨリ以来ト云ヨリ、 次第ニカソヘアケテ、我身ノ沈メルヨシヲ書テ、持テ 行所ニ、感歎シテ喜ヘル気色也、仍是ヲ用ラレケリ、/k125