十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の30 昔季札呉王の使ひとしてものへ行きける道に・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、季札、呉王の使ひとしてものへ行きける道に、徐君といふ友達(ともだち)に逢ひて、もの言ひけるほどに、徐君、季札が帯(は)ける太刀を望む気色ありけれども、言葉に出でて言はざりけり。季札、これを悟りて、「与へん」と思ひけるが、「われ、使節の身なり。帰りざまに与ふべし」と、心の中に契りて去ぬ。 いくほどを経ずして帰(かへ)さに尋ぬるに、徐君、はやくはかなくなりにければ、心の中の約束の違(たが)へざらむがために、かの塚を尋ねて、その剣を懸けける。 これは信士なれども、ことがら同じによりて、廉者の篇に書き加ふ。 紀斉名が「徳行策」の詞に書ける、   秋霜三尺、呉札懸釼於蒼柏之煙   暁浪一声、元礼移棹於緑蘋之月 ある人((『金葉集』によれば、源盛房。))、友達((源俊頼。))に太刀を約束して、久しく送らざりければ、かく((底本「かり」。諸本により訂正。))詠める、   亡きあとに懸けける太刀もあるものをさやつかの間に忘れはつべき 楽天((白居易))、書けることあり、   一鼠得仙生羽翼   衆鼠看是有羨色   可憐上天猶未半   忽作烏鳶口中食 これ、ものをうらやむまじき心にや。 ===== 翻刻 ===== 三十二昔季札呉王ノ使トシテ物ヘ行ケル道ニ、徐君ト云友達ニ 逢テ物云ケルホトニ、徐君季札カハケル太刀ヲ望ケシキ 有ケレトモ、詞ニ出テイハサリケリ、季札此ヲ悟テアタ ヘント思ヒケルカ、我使節ノ身ナリ、帰サマニ与ヘシト 心ノ中ニ契テ去ヌ、幾程ヲ経スシテカヘサニ尋ルニ、 徐君早クハカナクナリニケレハ、心ノ中ノ約束ノタカ/k88 ヘサラムカタメニ、彼塚ヲタツネテ、其釼ヲカケケル、是 ハ信士ナレトモ、事カラ同ニヨリテ、廉者ノ篇ニカキクハ フ紀斉名カ徳行策ノ詞ニカケル、 秋霜三尺呉札懸釼於蒼柏之煙 暁浪一声元礼移棹於緑蘋之月 或人トモタチニ太刀ヲ約束シテ久シク送サリケレハ、 カリヨメル、 ナキアトニカケケルタチモアルモノヲ、サヤツカノマニ ワスレハツヘキ、 楽天書ル事アリ 一鼠得仙生羽翼 衆鼠看是有羨色/k89 可憐上天猶未半 忽作烏鳶口中食 是物ヲウラヤムマシキ心ニヤ、又憂悦トモニフカクセ/k90