十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の22 昔夫婦あひ思ひて住みけり夫と軍にしたがひて遠く行くに・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 昔、夫婦、あひ思ひて住みけり。夫と軍にしたがひて遠く行くに、その妻、幼き子を具して、武昌の北の山まで送る。男の行くを見て、悲しみ立てり。 男、帰らずなりぬ。その子を負ひて、立ちながら死にたるに、化して石となれり。その姿、人の子を負ひて立つがごと、これによりて、この山を、「望夫山」と名づけ、その石を「望夫石」といへり。くはしくは『幽明録』に見えたり。 『しらら』といふ物語に、しららの姫君、男の少将の、「迎へに来む」と契りて、遅かりしを待つとて詠める、この心なり。   頼めつつ来がたき人を待つほどに石にわが身ぞなりはてぬべき わが国の松浦佐夜姫(まつらさよひめ)といふは、大伴狭手麿(おおとものさてまろ)が妻なり。男、帝の御使に、唐へ渡るに、すてて舟に乗りて行く時、その別れを惜しみて、高き山の峰に登りて二人、遥かに離れ行くを見て、悲しみにたへずして、領巾(ひれ)を脱ぎてまねく。 見る者、涙を流しけるより、この山を領巾麾峰((底本「領巾魔峰」。諸本により訂正。))(ひれふりのみね)といふ。この山は肥前国にあり。松浦明神とておはしますは、かの佐夜姫のなれるといひ伝へたり。この山を松浦山といふ。磯をば松浦潟といふなり。『万葉集』にこの歌の心あり。   遠つ人松浦佐夜姫つまこひに領巾振りしより負へる山の名 ===== 翻刻 ===== 廿六昔夫婦相思テスミケリ、夫ト軍ニ随テ遠ク行 ニ、其妻少キ子ヲ具シテ、武昌ノ北ノ山マテ送ル、男 ノ行ヲ見テ悲ミ立リ、男カヘラスナリヌ、其子ヲ ヲイテ立ナカラ死タルニ、化シテ石トナレリ、其姿人ノ子 ヲオヒテ立カ如シ、依之此山ヲ望夫山ト名ケ、其 石ヲ望夫石ト云ヘリ、委ハ幽明録ニ見タリ、シララ ト云物語ニシララノ姫君オトコノ少将ノムカヘニコ ムトチキリテ、ヲソカリシヲマツトテ、ヨメル此心ナリ、/k72 タノメツツキカタキ人ヲマツホトニ、石ニワカミソ ナリハテヌヘキ 我国ノ松浦佐夜姫ト云ハ、大伴狭手麿カ妻也オ トコ帝ノ御使ニ唐ヘ渡ニ、ステテ舟ニ乗テ行時、 其別ヲ惜テ、高キ山ノ峯ニ登リテ、二人遥ニハナレ行 ヲ見テ悲ニタヘスシテ、領巾ヲヌキテマネク、見ル モノ涙ヲナカシケルヨリ、此山ヲ領巾魔峯ト云此山 ハ肥前国ニアリ、松浦明神トテ御坐ハ彼サヨヒメ ノナレルト云伝タリ、此山ヲ松浦山ト云、イソヲハ 松浦カタト云也、万葉集ニ此哥ノ心アリ トヲツ人マツラサヨヒメツマコヒニヒレフリシヨリ/k73 オヘル山ノ名、/k74