十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の17 後冷泉院の御時陸奥守源頼義鎮守府の将軍を兼ねて貞任宗任を・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 後冷泉院の御時、陸奥守源頼義、鎮守府の将軍を兼ねて、貞任((安倍貞任))・宗任((安倍宗任))を攻めけるに、永承の末よりたびたび合戦につかれたりけるが、天喜五年十一月に、千三百余騎の兵をおこして、襲ひ寄せけるに、貞任ら、四千余騎の勢を集めて、舅(しうと)金為行が河堰の柵にこもりて、これを防ぎ戦ふ時、雪降り、風はげしくして、御方の兵、こごえ疲れたりけるうへ、勢もこよなう劣りたるあひだ、将軍の軍(いくさ)、大きに敗れて、死者、数を知らず。 兵、四方に散満して、残るところわづかに六騎、長男義家((源義家))・修理少進藤原景道・清原貞廉・藤原季範・大宅光任・藤原則明らなり。貞任が軍、これを囲みて攻め寄す。矢を飛すとばすこと雨のごとし。 しかるを、義家、これを防ぎ戦ふ。すでに神のごとし。若少の齢にて、大きなる矢を射る。その矢にあたる者、必ずたわれ伏さずといふことなし。四重に囲める軍を駆け破(やぶ)りて、囲みの中を出で、また、中へ入ること、たびたびなり。稲光(いなびかり)のごとくして、目を合する者なし。貞任、これを感じて「八幡太郎」と名づく。 かくのごとく、たびたび戦ふあひだ、貞任が軍、わづかに二百余騎になりぬ。なほ将軍を囲みて矢を降らすこと、ひまなし。 かくのごとく、あひ戦ふのあひだ、将軍、すでに迫りて、ほとんどまぬかれがたかりければ、義家・光任ら、五六騎して、命を捨てて四方を駆くるあひだ、貞任ら耐へず、引き退きぬ。 ここに佐伯経範といふ者ありけり。軍やぶれてのち、将軍の行く方を知らず。逃げ散りたる歩兵どもに、将軍のありどころを問ふ。「貞任らに囲まれて、みな逃れがたし」と言ふ。経範、天に仰ぎて悲しむ。「はや、将軍に仕(つか)へて、三十余年を経たり。かの命を失ふ時にのぞみて、われ一人生くべからず」と言ひて、敵の方へ駆け入りぬ。郎等ども二三人、同じくあひしたがひて駆け入る。多くの敵を討取りて、つひに討死(うちじに)す。 藤原茂頼といふ者あり。将軍の行く方を知らず、疑ひなく敵の中にして死するよしを存じて、「かの骨を拾はん」と思ふに、男の身にては敵の陣へ入られじ。たちまちに頭を剃りて行くあひだに、将軍に行きあひぬ。かつは悦び、かつは悲ぶ。将軍のくつばみに取りつきて、涙を拭ふ。出家いそがはしといへども、忠節の志、もつとも感にたへたり。 昔、後漢の光武皇帝((光武帝))、深山の中にありて、王莽が軍に囲まれたり。すべて行く方なくて、高岸より飛び落ちてけり。囲みを逃れたるのみにあらず。その身つつがおはしまさざりけり。士卒、これを知らず。敵のために討たれ給ひたることを嘆いて、おのおの心弱き気力なりけるに、ある臣いはく、「王の兄子、南陽にあり。なんぞ主なきことを愁へむ」と言ひけり。 これを思ふには、茂頼が出家、まことにすすめりといへども、主君・父子ともに疑ひなく死するよしを思ふあひだ、また憑(たの)む方なければ、理(ことはり)といふべし。すべて彼らが振舞(ふるまひ)を思ふに、樊会が鴻門に入りしよりも猛(たけ)く、預譲が橋の下にうかがひしよりもねんごろなり。 その勢少なきによて、貞任らを討ちえざりけるほどに、出羽国山北の住人清原武則、一家の輩を引き具して、すべて一万余騎の兵を、康平五年七月、将軍に加はりにけり。 さて、同九月十七日にぞ、厨河の柵にして、貞任、つひに討たれにける。その時、舎弟重任・息男千世童子より始めて、貞任と同じく頸を切る。親しき者八人、歩兵数知らず。残りの宗任・家任・則任ら、宗との輩十九人、十余日を経て降人に来たれり。 この中にことにあはれなることは、則任が妻女、館(たち)のやぶるる時、男に語りていはく、「君、すで死なんとす。われ一人生きて、なににかはせん」とて、三つになる子を抱(いだ)きて、高き岸より身を投げて死す。見る者、涙を流しけり。 頼義・義家ら、忠を天朝につくして、名を遠近に上げける。 その後、年ごろ経て、白河院の御時、後藤内則明((藤原則明))が老い衰へたりけるを召し出だして、軍の物語せさせられけるに、先づ申していはく、「故頼義朝臣((「朝臣」底本「臣」。諸本により訂正。))の鎮守府をたちて、秋田城へ着き侍りし時、うす雪ふり侍りしに、軍の男(おのこ)ども・・・」と申すあひだ、法皇の、「今はさやうにて候へ。事の体、幽玄なり。残のこと、これにて足りぬべし」とて、御衣を賜はせけり。 そもそも、松を貞木といふことは、まさしく人のために、かの木の貞心あるにあらず。雪霜のはげしきにも色あらたまらず、いつとなく緑なれば、これを貞心に比ぶるなり。「勁松は年の寒きにあらはれ、忠臣は国のあやうきに見ゆ」と、潘安仁((潘岳))が「西征の賦」に書ける、その意なり。 菅家((菅原道真))、太宰府に思しめし立ちけるころ、   東風(こち)吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ と詠みおきて、京を出でて筑紫に移り給ひてのち、かの紅梅殿、梅の片枝(かたえだ)、飛び参りて、生ひつきにけり。 ある時、この梅に向ひて、   ふるさとの花のものいふ世なりせばいかに昔のことを問はまし とながめ給ひければ、この木、   先人於故宅   籬廃於旧年   麋鹿猶棲所   無主独碧天 と申したりけるこそ、あさましとも、あはれとも、心もおよばれね。 唐国(からくに)の帝、文を好み給ひければ開け、学問怠り給へば、散りしぼみける梅はありけれ。好文木とぞいひける。 それなほ、ものも言はざりけり。まことに、一日に万里の山海をわけて飛び参るほどなれば、もの申しけるも理(ことはり)なり。この梅こそ、貞木とは思ゆれ。 ===== 翻刻 ===== 二十後冷泉院御時、陸奥守源頼義鎮守府の将軍を 兼て、貞任宗任を責けるに、永承のすえより度々 合戦につかれたりけるか、天喜五年十一月に、千三百余 騎の兵を発して、おそひよせけるに、貞任等四千余/k56 騎の勢をあつめて、しうと金為行か河堰柵にこ もりて是をふせき戦時雪ふり風はけしくして、 御方の兵ここへつかれたりける上、勢もこよなうをとり たる間、将軍のいくさ大にやふれて、死者数をしらす兵 四方に散満して、所残わつかに六騎、長男義家修 理少進藤原景道清原貞廉藤原季範大宅光 任藤原則明等也、貞任か軍是を圍て責寄、箭 をとはす事如雨、然を義家此を防戦既に如神、 若少の齢にて大なる矢を射る、其矢に中たるもの、必た われふさすと云事なし、四重にかこめる軍を、かけやふり て、かこみの中を出又中へ入事度々也、いなひかり/k57 の如くして目を合るものなし、貞任此を感して八幡 太郎と名く、如此度々戦間、貞任か軍僅に二百余騎 に成ぬ、猶将軍をかこみて矢をふらす事ひまなし、如 此相戦之間、将軍既にせまりて殆まぬかれかたかり けれは、義家光任等五六騎して命をすてて四方 をかくる間、貞任等たへす引退ぬ爰佐伯経範 と云ものありけり、軍やふれて後将軍の行方を不 知にけちりたる歩兵ともに、将軍の有所を問、貞任 等にかこまれて、皆のかれかたしと云、経範天に仰て悲 早将軍に仕て三十余年を経たり、彼命を失 時にのそみて、我独いくへからすと云て敵の方へ/k58 かけ入ぬ、郎等とも二三人同相随てかけ入る、多の敵 を打取て遂に打死す、藤原茂頼と云ものあり、将 軍の行方を不知疑なく敵の中にして死るよしを存 して、彼骨をひろはんと思に、男の身にては敵の陣へ入ら れし、忽に頭を剃て行間に、将軍に行相ぬ、且悦ひ且は 悲ふ、将軍のくつはみに取付て涙を拭ふ、出家いそ かはしといへとも、忠節の志尤感にたへたり、昔後漢 の光武皇帝深山の中にありて、王莽か軍にかこま れたり、すへて行方なくて、高岸よりとひおちてけ り、かこみをのかれたるのみにあらす、其身つつかおは しまささりけり、士率此を不知、敵のために被打給ひ/k59 たる事をなけいて、各心よはき気力なりけるに、或臣云 王の兄子南陽にあり、何主なき事を愁むと云けり、此 を思には茂頼か出家まことにすすめりといへとも、主君 父子共に無疑く死するよしを思間、又憑方なけれは 理と云へし、すへて彼等かふるまひを思に、樊会か鴻 門に入しよりもたけく、預譲か橋下に伺しよりも懃 也、其勢すくなきによて、貞任等を打えさりける程 に、出羽国山北住人清原武則一家の輩を引具して、 すへて一万余騎の兵を、康平五年七月将軍に加り にけり、さて同九月十七日にそ厨河の柵にして、貞任 つゐに被打にける其時舎弟重任息男千世童/k60 子よりはしめて、貞任と同く頸を切る、したしき者八 人、歩兵数不知、残の宗任家任則任等宗と の輩十九人、十余日をへて降人に来れり、此中に殊 に哀なる事は、則任か妻女たちのやふるる時男に 語て云、君既死とす、我一人生て何にかはせんとて、 三になる子をいたきて、高き岸より身をなけて 死す、見物涙を流しけり、頼義義家等忠を天 朝につくして、名を遠近にあけける、其後年来経 て白河院御時、後藤内則明か老衰へたりけ るを召出して、軍の物語せさせられけるに、先申云、故 頼義臣の鎮守府をたちて、秋田城へ付侍し/k61 時、うす雪ふり侍しに、軍のおのこともと申間法皇の 今は左様にて候へ事体幽玄なり、残の事此にて たりぬへしとて、御衣をたまはせけり抑松を貞木と 云事は、まさしく人の為に彼木の貞心あるに非す、雪霜 のはけしきにも色あらたまらす、いつとなく緑なれは 是を貞心にくらふる也勁松は年の寒にあらはれ忠 臣は国のあやうきに見と潘安仁か西征の賦にかける 其意也、 廿一菅家太宰府に思食立ける頃、 こちふかはにほひおこせよ梅の花あるしなしとて 春なわすれそ/k62 と読をきて、京を出てつくしにうつり給て後彼紅 梅殿梅のかたえたとひ参て生付にけり、或時此梅 に向て、 ふるさとの花のものいふ世なりせはいかにむかしの ことをとはまし となかめ給けれは、この木 先人於故宅、 籬廃於旧年、 麋鹿猶棲所、 無主独碧天、 と申たりけるこそ、あさましとも哀とも心も及はれね、から 国の御門文をこのみ給けれは開け、学問をこたり給 へはちりしほみける梅はありけれ好文木とそ云ける、/k63 其猶物もいはさりけり、誠に一日に万里の山海を わけてとひ参るほとなれは、もの申けるも理也此梅こそ 貞木とは覚れ、/k64