十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の16 清和天皇いまだ幼くおはしましける時大納言伴善男卿・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 清和天皇、いまだ幼くおはしましける時、大納言伴善男卿、身は賤しながら朝恩にほこりて、大臣を望む心つきにけり。 その時、左大臣信公((源信))とておはしけるを、「いかでか、この人を咎(とが)に申し行ひて、その代りに我ならむ」と謀(はか)りごちて、子息右衛門佐((伴中庸))に命じて、貞観八年閏三月十日の夜、応天門を焼きて、「信公大臣のしわざなり。咎重き」よしを讒し申すあひだ、死罪に行はるべかりけるを、忠仁公((藤原良房))いさめ申させ給ふによりて、その儀は留りにけれども、出仕に及ばず、こもりゐられたりけるほどに、月ごろを経て、善男の逆意あらはれてのち、信公、勅勘を許(ゆ)り、善男卿、伊豆国へ流し遣(つか)はさる。子息たちも方々へ配流されにけり。 これも、兄弟の謀計(([[s_jikkinsho06-15|前話]]参照。))にあらねども、ことざま同じによてこれを注(しる)し加ふ。 ===== 翻刻 ===== 十九清和天皇イマタオサナクオハシマシケル時、大納言 伴善男卿身ハ賤ナカラ朝恩ニホコリテ、大臣ヲ 望心付ニケリ、其時左大臣信公トテオハシケルヲ、 争カ此人ヲ咎ニ申行テ、其代ニ我ナラムトハカリ コチテ、子息右衛門佐ニ命シテ、貞観八年閏三月/k55 十日夜応天門ヲ焼テ、信公大臣ノシワザナリ、咎重 キ由ヲ讒申間死罪ニヲコナハルヘカリケルヲ忠仁公 イサメ申サセ給ニヨリテ、其ノ儀ハ留ニケレトモ、出仕ニ及 スコモリヰラレタリケル程ニ、月比ヲヘテ善男ノ逆 意アラハレテ後、信公勅勘ヲユリ、善男卿伊豆 国ヘ流遣サル、子息タチモ方々ヘ被配流ニケリ、此モ 兄弟ノ謀計ニアラネトモ、事サマ同ニヨテ注之加フ、/k56