十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の15 応神天皇八年(丁酉)夏四月に百姓の消息を・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 応神天皇八年(丁酉)夏四月に、百姓の消息を知ろしめさんがために、大臣武内宿禰を筑紫に遣はしけるに、舎弟甘美内宿禰、奏し申さく、「臣が兄武内、常に天下を望む心あり。今、筑紫にありて、三韓を招き集めて、ひそかに謀反を企つ」と。 天皇、使を遣はして、大臣を誅せらる。ここに、大臣、「二心なくして、忠をもつて君に仕ふる((「仕ふる」は底本「付る」。諸本により訂正。))。今、何ぞ罪なくして死なんや」と泣きけり。 時に、壱岐の直の祖真根子((「真根子」は底本「根子」。諸本により訂正。))といふ人ありけるが、その形、大臣にあひ似たり。大臣に語りていはく、「願くは、朝に参りて、その罪なきことを訴へ申し給へ。われ、大臣にかはりて誅せられむ」とて、すなはち、進み臥して、みづから死ぬ。 大臣、ひそかに海路より朝廷に参る。ここに、天皇、兄弟二人を推問して、大臣の咎なきよしを知ろしめして、ことに寵し給ひけり。 かの漢の紀信、楚の郡の滎陽を囲めるとき、高祖にかはりて革車に乗りし忠臣にことならず。他人なれども、時に随ひて、身にかはる情けも、かくあるぞかし。 弟たりながら、連枝の昵(むつ)びを忘れて、謀り失はむとしけるこそ、「志かなふ時は、胡越も昆弟たり。志合はざる時は、骨肉も讐敵たり」といへる、かれこれ通ひて思ひ合はせらるれ。 また、陳思王、七歩の詩にいはく、   煮豆燃其箕   豆在釜中泣   本是同根生   相煮何太急 とあるぞ、かはらぬ喩ひと思ゆれ。 清輔朝臣((藤原清輔))は、「加階を望み申す」とて詠める歌、またこの詩に違(たが)はざりけり。   梅の花同じ根よりは生ひながらいかなる枝の咲き遅るらん((「遅るらん」は底本「をりるらん」。諸本により訂正。)) 武内大臣は仁徳天皇五十五年(丁卯)薨ず。景行天皇より以来、六代の朝に仕へて、征年二百八十二、在官二百四十四年なり。 ===== 翻刻 ===== 応神天皇八年(丁酉)夏四月ニ、百姓ノ消息ヲ知食ン カタメニ、大臣武内宿禰ヲ筑紫ニ遣シケルニ、舎弟甘 美内ノ宿禰奏申サク、臣カ兄武内常ニ天下ヲ望 ム心アリ、今ツクシニ有テ三韓ヲ招集テ、ヒソカニ 謀反ヲ企ト、天皇使ヲ遣テ大臣ヲ誅ラル爰ニ 大臣二心無シテ忠ヲ以テ君ニ付ル、今何ゾ罪無シ テ死ヤトナキケリ、時ニ壱岐ノ直祖根子ト云人ア リケルカ、其形大臣ニ相似タリ、大臣ニ語云願ハ朝ニ 参テ其罪ナキ事ヲ訴申給ヘ、我大臣ニカハリテ誅 セラレムトテ、即ススミ臥テ自死ヌ、大臣ヒソカニ海路/k53 ヨリ朝庭ニ参ル、爰ニ天皇兄弟二人ヲ推問シテ、 大臣ノ無咎ヨシヲ知食テ殊ニ寵シ給ケリ、彼漢紀 信楚ノ郡ノ滎陽ヲカコメル時高祖ニカハリテ革車 ニノリシ忠臣ニ不異、他人ナレトモ時ニ随テ身ニカハル ナサケモ、カクアルソカシ、弟タリナカラ連枝ノ昵ヲ忘 テハカリ失トシケルコソ、志カナフ時ハ胡越モ昆弟タ リ、志不合時ハ骨肉モ讎敵タリト云ル、彼是カヨヒ テ思合ラルレ、又陳思王七歩ノ詩云、 煮豆燃其箕 豆在釜中泣、 本是同根生 相煮何太急 トアルソ、カハラヌタトヒト覚レ、清輔朝臣ハ加階ヲ/k54 望申トテ読ル哥、又此詩ニタカハサリケリ、 ムメノ花オナシネヨリハオヒナカラ、イカナル枝ノ サキヲリルラン、 武内大臣ハ仁徳天皇五十五年(丁卯)薨、景行天王ヨ リ以来六代ノ朝ニ仕テ、征年二百八十二、在官二百 四十四年也、/k55