十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の4 履中天皇いまだ太子の御時御弟の住吉仲皇子のために・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 履中天皇、いまだ太子の御時、御弟の住吉仲皇子のために武をおこして、太子の難波宮を囲めりしに、太子、淵酔によりてこのことを知り給はず。 時に、武内大臣((武内宿禰))の子、平群宿禰木菟((底本「の子」なし。諸本によって補う。))、以下三人の忠臣((『日本書紀』では、平群宿禰木菟・物部大前宿禰・阿知使王。))ありて、ひそかに太子にこのことを申すといへども、おどろき給はず、すでにのがれがたくおはしけるを、馬に助け乗せ奉りて、逃げ出でたりけるに、はるかに大和国多遅比野((底本「多庭北野」。諸本により訂正。))にいたりて、はじめて覚めたりけり。 太子を逃し奉りつ。皇子の軍(いくさ)の、かの宮をば焼きてけり。わが朝に内裏焼亡のはじめなり。 さて、太子、石上の宮に移り給ひて後、謀りて仲皇子を討ちて、帝位を継ぎ給ひけり。 ===== 翻刻 ===== 四履中天皇イマタ太子ノ御時、御弟ノ住吉仲 皇子ノタメニ武ヲ発テ、太子ノ難波宮ヲカコ メリシニ、太子渕酔ニヨリテ此事ヲ不知給時 ニ武内大臣平群ノ宿禰木菟以下三人ノ忠臣ア リテ、ヒソカニ太子ニ此事ヲ申トイヘトモ驚キ 給ス、既ニ難免御座ケルヲ、馬ニタスケノセ奉 テ逃出タリケルニ、遥ニ大和国多庭北野ニ至テ 始テサメタリケリ、太子ヲ逃奉ツ皇子ノイク サノ彼宮ヲハ、ヤキテケリ、我朝ニ内裏焼亡ノ 始ナリ、サテ太子石上ノ宮ニ移給テ後ハカリ/k35 テ仲皇子ヲ打テ帝位ヲツキ給ケリ、/k36