十訓抄 第六 忠直を存ずべき事 ====== 6の序 ある人いはく孔子のたまへることあり・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== **第六 忠直を存ずべき事** ある人いはく、孔子のたまへることあり。 「ひとへに君に随(したが)ひ奉る、忠にあらず。ひとへに親に随ふ、孝にあらず。争ふべきとき争ひ、随ふべき時随ふ、これを忠とす、これを孝とす」。 しかれば、主君にてもあれ、父母・親類にてもあれ、知音・朋友にてもあれ、「悪しからんことをば、必ずいさむべき」と思へども、世の末にこのことかなはず。人の習ひにて思ひ立ちぬることをいさむるは、心づきなくて、いひあはす人の心にかなふやうにも思ゆれば、天道はあはとも思すらめども、主人の悪しきことをいさむる者は顧(かへり)みを蒙ること、ありがたし。 さて、することの悪しきさまにもなりて、閑(しづ)かに思ひ出づる時は、「その人のよく言ひつるものを」と思ひあはすれども、また心の引く方につけて、思ひたることのある時は、「むつかしく、またいさめずらむ」とて、「このことを聞かせじ」と思ふなり。これはいみじく愚かなることなれども、みな人の習ひなれば、腹黒からず、また心づきなからぬほどに、はからふべきなり。 すべて人の腹立ちたる時、強(こは)く制すれば、いよいよ怒(いか)る。さかりなる火に少水をかけんは、その益なかるべし、されば、機嫌をはばかて、和(やは)らにいさむべし。君、もし愚かなりとも、賢臣あひ助けば、その国乱るべからず。親、もし驕(おご)れりとも、孝子つつしむて随はば、その家全くあるべし。重き物なれども、船に載せつれは沈まざるがごとし。上下はかはれども、ほどほどにつけて、頼めらん人のためには、ゆめゆめうしろめたなく、腹黒き心のあるまじきなり。かげにては、また冥加を思ふべきゆゑなり。 微子が紂の心のおさまらざることを知りながら、偽りたはれて、奴(やつこ)となり、何曽が晋の政の驕れるをいさめずして、家に帰りて、しりうごとしける、これらは身のためをかまへ、へつらへるばかりにて、報国の臣にあらざることをそしられたり。 ===== 翻刻 ===== 第六可存忠直事 或人云、孔子ノ給ヘル事アリ、偏ニ君ニ随奉ル忠 ニアラス、偏ニ親ニ随孝ニアラス、アラソフヘキ時 諍ヒ随フヘキ時随フ、是ヲ忠トス、是ヲ孝トス、 然ハ主君ニテモアレ、父母親類ニテモアレ知音 朋友ニテモアレ、悪カラン事ヲハ必イサムヘキト/k29 思ヘトモ、世ノスエニ此事カナハス、人ノ習ニテ思立 ヌル事ヲイサムルハ、心ツキナクテイヒアハス人ノ 心ニカナフ様ニモ思レハ天道ハ哀トモオホス ラメトモ、主人ノアシキ事ヲイサムルモノハ顧 ヲ蒙事アリカタシ、サテスル事ノアシキ様ニモ ナリテ、閑ニ思出ル時ハ、其人ノヨク云ツル物ヲト 思ヒアハスレトモ、又心ノ引方ニ付テ、思タル事 ノアル時ハムツカシク、又イサメスラムトテ、此事 ヲ聞セシト思也、是ハイミシク愚カナル事ナレ トモ、皆人ノ習ナレハ、ハラクロカラス、又心付ナカラ ヌホトニハカラフヘキ也、スヘテ人ノ腹立タル時、コ/k30 ハク制スレハ、イヨイヨイカルサカリナル火ニ少水ヲ カケンハ其益ナカルヘシ、然者機嫌ヲハハカテ 和ニイサムヘシ、君モシヲロカナリトモ賢臣相 助ケハ、其国ミタルヘカラス、親モシオコレリト モ、孝子ツツシムテ随ハ其家全アルヘシ重物 ナレトモ船ニノセツレハ如不沈、上下ハカハレトモ、ホ トホトニ付テタノメラン人ノタメニハ、ユメユメウ シロメタナクハラクロキ心ノアルマシキ也、隠ニテハ 又冥加ヲ可思故也、微子カ紂ノ心ノオサマラ サル事ヲ知ナカラ、偽タハレテヤツコトナリ、何曽 カ晋ノ政ノオコレルヲ諫スシテ、家ニ帰テシ/k31 リウ事シケル、此等ハ身ノ為ヲカマヘヘツラ ヘル計ニテ、報国ノ臣ニアラサル事ヲ謗ラレ タリ、/k32