十訓抄 第五 朋友を撰ぶべき事 ====== 5の17 醍醐の御門隠れさせ給ひてほど経てのち御嶽の日蔵上人・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 醍醐の御門((醍醐天皇))、隠れさせ給ひて、ほど経てのち、御嶽の日蔵上人、承平四年四月十六日より、笙の窟(いはや)に籠りて行ひけるほどに、八月一日、午の刻ばかりに頓死し給ひて、同十三日にぞよみがへりたりける。 そのあひだ、夢にもあらず、現(うつつ)にもあらずして、金剛蔵王の善巧方便にて、三界六道見ぬ所なく((「見ぬ所なく」は底本「みた所なり」。諸本により訂正。))経廻(へめぐ)りけるほどに、かの御門の御座所に至れりけり。 四つの鉄山ありて、あひ去ると、おのおの五丈ばかり、その中、一つの茅屋あり。御門、これにおはします。上人を御覧じて、悦びて近く招きよせ給ひて、「われ、日本国金剛覚大王((宇多天皇))の子なり。しかるに、在位の時、五つの重き罪あり。これ、むねとは菅原大臣のことによるがゆゑに、この鉄窟の苦所に落ちて、かかる苦報を受くること、年久しくなれり」と仰せられけり。さて、「御身の助かり給ふべき善根のやうをば、主上・国母に申すべし」とぞ、御ことづけはありける。 御門・三臣((藤原時平・源光・藤原定国))、ともに赤き灰の上にうづくまり給へり。御門ばかりは、御衣、肌(はだへ)を隠す。残りは裸なり。おのおの悲泣嗚咽し給ふことなのめならず。上人、この時かしこまり給ひければ、「冥途には貴賤を論ぜず。罪なきを主とす。敬ふべからず」とぞ、御門仰せられける。 上人、涙を流して、かの屋の外へ出でければ、四つの山、一つになりにけりとなん。 高岳親王((平城天皇皇子。真如親王ともいう。))の   いふならく奈落の底に落ちぬれば刹利(せちり)((クシャトリヤ))も首陀(すだ)((スードラ))もかはらさりけり と詠み給へるやうに、十善万乗の主なれども、所をおき奉ぬならひ、かなし。 さて、上人、このよしを奏しければ、穏子皇太后((醍醐天皇皇后、藤原穏子))、その御いとなみありて、いみじく後世をとぶらひ申させ給ひけり。これら、後世まで御志深きゆゑなり。 ===== 翻刻 ===== 十六醍醐御門隠サセ給テ、ホトヘテ後、ミタケノ日蔵 上人承平四年四月十六日ヨリ笙ノ窟ニ籠テ行 ヒケル程ニ、八月一日午尅斗ニ頓死シ給テ、同十/k24 三日ニソヨミカヘリタリケル、其間夢ニモアラス ウツツニモ非スシテ、金剛蔵王ノ善巧方便ニテ、 三界六道ミタ所ナリ経廻リケルホトニ、彼帝 ノ御座所ニ至レリケリ、四ノ鉄山有テ、相去事 各五丈計、其中一ノ茅屋アリ、帝是ニ御座ス、 上人ヲ御覧シテ悦テ近クマネキヨセ給テ、我 日本国金剛覚大王ノ子也、然而在位ノ時五ノ重 キ罪アリ、此レ宗トハ菅原大臣ノ事ニヨルカ故ニ此 鉄窟ノ苦所ニ落テ、カカル苦報ヲ受ル事年 久ナレリト被仰ケリ、サテ御身ノ助リ給ヘキ善 根ノ様ヲハ、主上国母ニ可申トソ御事付ハ有ケ/k25 ル、帝三臣共ニ赤キ灰ノ上ニウツクマリ給ヘリ、帝 計ハ御衣ハタエヲカクス、残ハハタカ也、各悲泣嗚咽 シ給フ事ナノメナラス、上人此時畏リ給ケレハ、冥 途ニハ貴賤ヲ論セス、罪ナキヲ主トス、不可敬ト ソ御門被仰ケル、上人涙ヲ流シテ彼屋ノ外ヘ出 ケレハ、四山一ニ成ニケリトナン、高岳ノ親王ノ イフナラクナラクノソコニオチヌレハ、セチリモ スタモカハラサリケリ トヨミ給ヘルヤウニ、十善万乗ノ主ナレトモ、所ヲヲキ 奉ヌナラヒカナシ、サテ上人此由ヲ奏ケレハ穏子皇 太后ソノ御営有テ、イミシク後世ヲ訪ヒ申サセ/k26 給ケリ、此等後世マテ御志深キ故也/k27