十訓抄 第五 朋友を撰ぶべき事 ====== 5の16 清和帝隠れさせ給ひて東宮の御息所恋ひ悲しみ給ふことかぎりなし・・・ ====== ===== 校訂本文 ===== 清和帝((清和天皇))、隠れさせ給ひて、東宮の御息所((藤原多美子を指すが、東宮の御息所ではない。))、恋ひ悲しみ給ふことかぎりなし。月日重なりゆくにつけて、昔を忍び給ふ涙のみ、御袖に乾く間なくて、せむかたなきままには、朝夕通ひし御文どもを入れおかれたる箱の、百合にも余りたるを開けて、見させ給ふにつけても、御心のおきどころなく思され((底本「覚さり」。流布本等「覚えさせ」。))ければ、雲井の煙となさんことも、「むげに、はかなし」とて、これを色紙に漉(す)かせて、多くの大小乗経を書き、供養せられけり。 その願文を橘贈納言広相((橘広相))に書かされければ、作り持(も)て参りて、御経を拝み奉るに、料紙の色の、夕べの空の薄雲などのやうに浅黒(あさぐろ)なるを見て、「この御経は、紺紙にもあらず、色紙にもあらず。いかなるやうの侍るぞ」と尋ね申せば、「さるべきゆゑあり」とばかりにて、のたまはせぬを、あながちに申しけるをり、御簾の際(きは)近く召し寄せて、みづから忍びあへぬ御気色にて、「まことには、しかなり」と仰せられければ、「この意(こころ)をや御願文に載せらるべき」と、恐れながら申しければ、「そのことなり。宸筆を破(や)りなせるも、はばかりなり」と仰せられければ、「少し、いかでかほのめかされさらんとて、   同心契辺蓮花偈   匪石詞入鑁字門 と書き入れられたるとなん。 これよりそぞ、反古色紙は世には始まりける。 ===== 翻刻 ===== 十五清和帝隠サセ給テ、東宮御息所コヒ悲ミ給 事限ナシ、月日カサナリ行ニ付テ、昔ヲ忍給/k22 涙ノミ御袖ニカハクマナクテ、セム方ナキママニハ、 朝夕カヨヒシ御文トモヲ入置レタル箱ノ百合ニ モアマリタルヲ、アケテ見サセ給ニ付テモ、御心ノ 置所ナク覚サリケレハ、雲井ノ煙トナサン事 モ、無下ニハカナシトテ、此ヲ色紙ニスカセテ、多ノ 大小乗経ヲ書供養セラレケリ、其願文ヲ橘 贈納言広相ニ被書ケレハ作モテ参テ、御経 ヲオカミ奉ニ、料紙ノ色ノユフヘノ空ノウス雲 ナトノ様ニアサクロナルヲ見テ、此御経ハ紺紙ニモ アラス色紙ニモアラス、イカナル様ノ侍ソト尋申 セハ、サルヘキユヘアリトハカリニテノ給セヌヲ強ニ申ケル/k23 オリ、ミスノキハチカク召寄テ、ミツカラ忍ヒア ヘヌ御気色ニテ、実ニハシカナリト被仰ケレハ、此 意ヲヤ御願文ニノセラルヘキト恐ナカラ申ケレハ、 ソノ事ナリ、宸筆ヲ破リナセルモ、憚也ト被仰ケ レハ、スコシイカテカホノメカサレサラントテ、 同心契辺蓮花偈、 匪石詞入鑁字門 ト書入ラレタルトナン、是ヨリソ反古色紙ハ世ニハ 始ケル、/k24